洛 陽
ロー   ヤン luo yang
2004/5/19・20
        龍門石窟
大同の雲崗石窟・敦煌の莫高窟と並ぶ中国三大石窟のひとつ。
北魏の孝文帝の洛陽遷都にあたる494年に開始され、唐代までの約400年間にわたって続けられた。現存する石窟は計1352ヶ所。全長はTkmに及ぶ。唐代末までに彫られた仏像は10万体。多くの石窟は西側河岸にあるが、北魏時代の石窟は入り口付近の3洞をはじめとする14窟で、その他は唐代のものである。
 ほぼ中央上ぶにある奉先寺洞は、龍門石窟を代表する石窟で、唐の最盛期に造られた。

中央に高さ17mの盧舎那仏の坐像があるが、モデルは則天武后といわれている。
・・・・洛陽というのは、宗において衰微するまでは,大した町であった。唐代では、首都が長安であったとはいえ、なお、副首都の位置をたもっていたとされる。

 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方まで光芒を放っていたが、その後背地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力を持たなくなり(長安の消費人口が大きすぎるため)食料その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。

 このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙(ギョ)がそなえられていた。

 皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。

 百官を連れて来た。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。

 玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食う事がしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたと言う。

 江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食料が洛陽まで運ばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。

 その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうがてっとりばやく、そう言う発想で洛陽への行幸が営まれた。

 九世紀には、日本僧の空海も円仁もこの町を通った。

/・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長安から北京へ
                    司馬遼太郎(中公文庫)


洛陽は今度の旅で唯一街を歩きたいと思った都市である。そういった意味では町々が観光地としての位置づけであった。

 京都が西安(長安)なら奈良が洛陽といった感じで洛陽を想像していた。だから、小燕との打ち合わせの時から、洛陽は一日市内をブラブラと歩き回りたいから、2泊にしてね。と頼んだ。

 だから、昨日、ジャオさんの車で洛陽入りをした時はとても胸がドキドキしていたものだ。5年前、初めて西安の城内に空港バスで入ってきた時と同じ高揚があった。

 しかし、車中から眺める街の風景は余りパッとしない。
高層ビルの林立する整然とした都市というわけでもない、といって木々の緑で覆われた静かな古都といった感じもしない。

 なんの特徴もない中国の中都市?僕の思い入れ強い洛陽は街の香りを捨ててしまったような印象がした。
 
 成都や鄭州の市街地中心の華やかさを見てきたばかりのせいもあると思うけど、その夜、出かけた洛陽の歩行街(ブシンジェ)のうらびれた暗い光景が頭から離れない。

 
敦煌の莫高窟を見ていたのと仏像にさほど強い関心がないせいか龍門石窟への期待感はさほど強くはなかったけど、あの川沿いに延々と続く仏像石窟を眺めた時はさすがに「ホーッ」と感嘆の声をあげた。

 もっとも、又入り口(切符切り)で我がジャオ氏と係り官の激しいバトルがあり、とうとうジャオさんが負けて、ぼくが切符代200元ぐらいを払うはめになった。その間のトラブルタイム30分の後だっただけに、ホッとした後の感動だったのかもしれない。

 さすがに有名観光地なので観光客の数は相当のものだった。ほとんどが中国人だ西欧人も結構めだったけどわが日本人はたぶん団体としてはいなかったと思う。
 日本人観光団と遭遇したのは結局、あの九寨溝でだけだった。

 石窟群は左の画像で雰囲気を感じていただければ嬉しい。
 大体、時間の経緯に合わせて配置した。

 僕たち二人は橋を渡って反対側(東山)から石窟をながめたり、またまた長い石階段を上がる(
香山寺)をめざした。

 旅の間中、ぼくは何度思ったことだろう。
  「もう、山の上にある寺には登るのをよそう。」と

 この香山寺の階段はとりわけ堪えた。

どこやらの学生たちと一緒だった。可愛い女の子たちがたくさん一緒だったので何とか上まで上がることが出来たがジャオさんと二人きりだったら,やめてたかもしれない。

 しばらく行くと白楽天(白居易)の墓がある公園を訪れた。

洛陽への帰りに
関林へ立ち寄った。
 曹操が敵側になる関羽に敬意を表して建てたという関林は
プランの段階からぼくが小燕子に頼んでコースに組んでもらったところだった。

 もう少しさびしい処かと思っていたら、ここは経済(金儲け)の神様なんだそうで、中国全土から金持ちになりたい人たちが訪れるんだそうだ。

 一番奥にある
関羽の墓(まんじゅうのように大きな円の中にある)に行ってみた。

 成都にある劉備の墓も大きかったけれど、ここの墓は三倍は確実に大きいと思った。

帰りの車中でぼくは言った。

 「明日はボクひとりで洛陽博物館やら市内見物でもして
 午後の汽車で蘭州に行きますから、ジャオさんはボクを
 ホテルまで送ったら鄭州へお帰り下さい。」・・・・と。

  「メガンシー メイガンシー。ハイヨードーシージェン。
   ウォ ダイニー ボーウーグアン クオイー」
  
注:大丈夫ですよ、まだ時間が一杯ありますから
  ボクが案内します。」
ということで、ホテルに帰らずに洛陽博物館に行くことにした。

 余り期待もしていなかった博物館だったけどこれがとても内容の濃い博物館だった。 

 古いせいか、そういう意味では洛陽の市街地の雰囲気と似ている。豪華な、ゆとりのある内部ではなかったけれど、人も少なくゆっくり見学できた。あとで、ここの陶器・唐三彩は有名だど知ったのだけど、確かに圧巻だった。

 カメラを車の中に置いてきたのが残念だった。

 またジャオさんがなにかしきりにすすめてくれる。
 
 「シンダボーユグアン マーチャーダ ・・・・・・・シンブシン
  ニーミンバイラマ?」

 何やら新しい博物館を見に行かないか?と言ってるらしい。」
ボクが分らないのか、今度はメモ紙に20元とか、馬とか、
 書くので

 「オーケーオーケー、可以(クァイー)」
   あぁ いいですよ」というと、ニャリと笑って走り出した。

連れて行かれたところは洛陽の中心街にある広場(グアンジャン)である。そういえば広場の真ん中に工事の後がありクレーンがあり、大きなテントが張ってある。そして、馬の像があったように思う。

 駐車場をみつけ車を降りた。
 地下に降りていくと階段の途中で又料金所がある。あぁ、ここが新しい博物館で20元の入場料が要るというわけか?

 何とそこは、3年ほど前に、ここに大きなスーパーを作ろうと工事を始めたら底から馬の骨や荷車がいっぱい出てきたらしい。

 調査してみると、なんと紀元前700年から200年のころの周の時代というからあの西安で発掘された秦の始皇帝の兵馬ヨウより以前である。

 今年2004年の4月というからごく最近にこの現場をそのまま博物館名にしたとのことで、真新しいパンフレットを貰ったのだが残念な事にボクが帰ってから送ってもらうことになっている郵送品箱に入れたままで今此処に無いのでそのパンフレットに書かれた
新博物館名がわからない。
 送って来次第、ここに書き込むつもりである。

 それまでは馬荷車博物館みたいな仮名が付いていて、人々もその呼び名で呼んでいたらしい。
 
 それは暗い地の底に、眼下にそのままの形で、綺麗に土を払い落とした馬の骨と、荷車の列が連なっている。

 2000年前の馬のいななきが聞こえてきそうな感動的な現場がライトで照らされていた。

 写真撮影が禁止されていたので現場をお見せ出来ないのが残念だけど、
そのパンフレットには現場写真が載っているので、ボクの許に郵便箱が届いたらコピーしてお見せできると思う。
6月25日に最後の荷が中国から届きました。上に書いたパンフレットのコピーを早速、写真の最後に掲載します。
 上の原稿の博物館名も分りました。

 以前2003年10月1日 周王城車馬杭博物館 開館
 2004年初  上更名『洛陽周王城“天子駕六”博物館


 20日の日記 

 今日、行く予定の博物館を昨日済ませてしまったので今日は昼過ぎまでホテルでゆっくり過ごすことにした。

 ジャオさんは今日の蘭州行きのことについて何度も僕に念をおして、昨夜、6時ごろホテルにボクを送ったあと、ニコニコ笑顔で、名残惜しそうに?手を振りながら鄭州に帰って行った。

 奥さんにおみやげでもと50元札を一枚手渡した。 あとで、「何てケチなことをしたのだろう。100元渡せばよかった。」と反省したが、この頃、ボクも、100元〜1,500円という日本変換レートを忘れてしまいかかっているようだ。

 日本式に考えたら200元ぐらいお礼に渡しても多すぎはしないのだが。

午前中はホテルでいろいろと書き物をしたりして1時30分のチェックアウトまで過ごすことにした。
 なにしろ暑い、こちらに来て天候に恵まれる過ぎているのか
これが5月の天気で、長沙が異常なのか?
 多分、後者だと思う。
 ふと、牡丹公園にでも行ってみようか?と思ったけど日射病にでもなったら元も子もない。

 それにしても、昨日の東関(もしかしたら、この名称、正しいかもしれない。メモにあったから・・・)新公園はびっくりした。
 すばらしい観光地が洛陽に出現した。

 日本の観光社も新しいコースの設定をしてもいいのではないだろうか?

 11:45頃:


突然、携帯が鳴った。長沙の小燕か?それとも、シャケンか?それとも上海の李黎か
 ウルムチの馬さんか?と思って電話に出ると、はるばる熊本の八期友達・上田平加寿子さんのなつかしい声が飛び込んできた。
 「オイシサン!今、何処にイルノ?」
 それからしばらく熊本〜洛陽間の国際電話は続いた。

 「アタシ、インタネットの回線で電話してるから電話料ただみたい。気にしなくていいのよ。」

 いつもの彼女のあかるい顔を思い浮かべながら、ぼくも、こちらの様子をこまかく話す。彼女は僕のからのメールやHPで結構、僕の行動を知っていてくれて嬉しかった。

 「わたしもこのごろ中国に興味を持ち始めたのよ。」のコトバは嬉しかった。

電話を切ってほどなく、昨日のジャオさんから電話がきた。

 「蘭州に着いたら電話をくれ。」という。
 もう、彼の役目は終わったはずなのに。」
 心配してくれてるらしい。例によって,なにを言っているのか早口の中国語はわからない。最後に例によって
  「明白了馬?」ときたので
  「対了!明白了。」と、合言葉で答えると、日本語で
  「サヨナラ」とヨにアクセントをおく独特のコトバで電話を切った。
 ほどなく、フロントから電話が入った。
 「火車票(汽車の切符)を渡しに部屋に行く」と言う。

 ジャオさんが僕に切符を持っていくようフロントに言ったのだろう。
 駅は近いからタクシーは使わなくていい。とホテルの服務員は言う。これも、ジャオさんがホテル側に申し伝えていたのだろう。
実は昨夜、今日の駅までの行程を体験してみようと歩いてみたら結構遠いし、旅行カバンを引っ張っていく事を思えば
わずか5元(洛陽のタクシーはとても安い)何も節約するほどの額でもないのでタクシーで駅まで行く事に決めていた。

その後に起こった 洛陽駅での出来事。 を知りたい人は、ここをクリックしてください。

次は蘭州です。
中央に高さ17mの盧舎那仏の坐像
ある、モデルは則天武后といわれている。
則天武后は中国政治史上において唯一皇帝
となった女性。690年、息子の皇帝から皇位
を奪い取り、自ら皇位に就き、国名を周と変え
、長安からここ洛陽の遷都し以後、15年間、
女帝として独裁政治をおこなった。
盧舎那仏の坐像は大丈夫だが他の石造は
顔が無残にも削り取られていた。
 多分、文化大革命のときの後遺症と思われる

日経ナショナルジオグラフィク社の旅行書
によると:歴史の傷跡の項目で次のように
書いてある。僕の感じた文化大革命とは
関係ないのかも知れない。
・・・・・石窟をけんがくしているうちに、感嘆
の気持ちがわきあがってくるのと同時に、
仏像の損傷や汚れが目につくようにようにな
るかもしれない。残念ながら、石窟内は頭の
欠けた仏像や菩薩像が非常に多い。多くは
骨董収集家が原因だが、顔の部分が壊され
ているものは反仏経勢力の手によるものと
考えられる。

後ろ姿黒Tシャツの帽子は戦う前のジャオさん。
30分ほど僕はここで美しい川を眺めていた。
彼のサービスは満点だった。「ここで写真トレ」の連発。
仏像の説明も詳細をきわめた。
きつかった香山寺と白楽天の墓
西山から東山への橋の上から
帰りはこのミニバスが送ってくれる。
魏の曹操が蜀の関羽の首塚として祭った関林
観光客に説明するジャオさん。
関林
1元コインを入れて音がすると???とか。
全写真拡大出来ます。