ZHU ZHOU
炎帝陵は株洲市炎陵県南西15キロの唐田郷鹿坡原にあり、中華民族の元祖,炎帝神農氏の寝陵です。
 伝説では、大昔、神農氏が南方を巡視していて、皆のために薬を探していたとき,毒草{断腸草」を誤って食べた為死んで、死後鹿原坡で埋葬されたそうです。
 西暦960年宋朝の元祖が即位して、天下の古陵を歴訪して、乾徳五年ここで廟を建てて神農氏を祭りました。
 炎帝陵は1988年立て直され、五つの庭のある宮殿式の構造で古風質朴荘重な建築である。
 上の象は市内の中心の公園広場に立っている炎帝像。
炎帝像
株  洲
僕の長いぶらり旅もとうとう最後の都市になってしまった。
 何故、株洲が最後の書き込みになったのかは知らない。

 写真をみても判るように株洲に行ったのは実は僕の今回の100日中国滞在のちょうど真ん中頃だったのである。

 学生の朱俊橋が
 「先生、こんどの金曜日、アタシと一緒に、私の故郷行きませんか?」と言ってきた。
 生徒の田舎に一緒に行ってみたい。というのは、もとより僕の長年の夢だったので喜んで連れて行ってもらうことにした。

 劉先生に職員室でそのことを話すと
 「大石先生、株洲は田舎ではありませんよ。大きな都会です。」
とジェスチュアまじりで言われた

 映画「初恋の来た道」のような古い中国の山・川・野原を想像していた僕には、ちょっとガッカリだったけれど、なんでも湖南省第二の都会も悪くないナと思い直した。
 朱さんに訊いた。
 「火車(列車)ですか?それともバスですか」
 「高速バスです。」「2時間かかりません。」
 とニコニコ顔で答えた。

 朱俊橋はクラス一のふっくら小姐である。授業中に活発に発言する3人の中に入る、つまり、よく言えば熱心な学生である。     
その日は5月のような陽気だった。
 長沙駅の近く、アポロデパートの横に長距離バスのターミナルはあった。
 いつも週末は実家に帰るのだと彼女は言った。
 僕を連れて帰るというので彼女もかなり高揚しているのか?顔が生き生きと見えたけど、それは僕の勝手な自惚れのようだ。

 「ご両親にも会えますか?」と訊いて見たけど要領をえない。仕事で昼は居ないんだとは聞き取れたけど。

 エアコンの効いた長距離バスは思いの外快適だった。ガタガタの市内バスの汚さに較べると高級マンションといった感じである。
 車中はいろいろな話をした。
その話の内容は余り覚えていない。 
 直後の記した『ケイジの日本語老師日記』を読み返してみた。
 うまく書き直すのも面倒なのでそのままここに転載する。


・・・『ケイジの長沙日記』で書いた文章を紹介しょう。
                              2004・4・24
 朱俊橋さんの実家・株洲市に遊びに行った。二人での高速バスの 旅である。
 長沙駅の近くのアポロデパートの横に近郊の高速バス駅はある。 乗ってみると、なかなか快適なバスだ。エアコンにゆったりシート 。時間にして80分である。

 株洲市は湖南省の南に湘譚市とほぼ並んで位置している。湘譚  市が毛沢東の故郷として名を上げているのに対して、株洲市は工 業の町として有名らしい。と言うのは、僕は全く知らない町だから  である。
 彼女に何か名物か、名所はないの?と聞いたら即座に答えが返  ってきた。

 炎帝の銅像のある広場が中国で天安門に次いで、第二のスケー ルなんだそうである。
 だいたい、炎帝なる人物が初めて聞く名である。
 2000年も前の伝説の人物なんだそうである。なにやら、串木野市の「徐福」伝説を思い出した。
株洲市はは真ん中を長沙市と同じように湘江が流れ、炎帝広場の後方には巨大なテレビ塔があった。

 二人っきり、他に誰も見学者がいない。料金二人で60元は彼女が「ここでは、あたしが先生を連れてきたのだから、私が払います。」と言って、帰りのレストランの代金も含め、彼女が持った。

 帰りには海南島の南の端の南山とかいうお寺で買ったという有名なDVDを貰った。
 家(自宅マンション)にも案内してもらった。
 ご両親は銀行を退職後、自分で起業され、今は、広州にすんでおられるとか、結構、大きなマンションに今は妹さんが一人で住んでいるそうだ。
 彼女は、週末、金曜日の午後にここに帰り。日曜の午後学校の寮に戻る生活をしていると言っていた。


 正直なところ、バスが走り出してからかなりの時間は車窓から過ぎてゆく華南の風景を眺めていた。

 旅に出て、このようにありふれた風景を眺めながら、無作為に現れるいろんな事を考える時間はとても楽しい。

 こういった学生との交流は相互学習、つまり日本語・中国語の会話実習が目的でもあるわけだから僕たちもいろいろなことを電子辞典の力を借りながら話し合った。

 彼女の日本語は日常会話としては充分だった。
 授業中に読む日本語の朗読はかなり落ちるけど会話は全然、違和感はない。
 日本人は読ませたら何とか読めるけど、会話になると苦手になる。何故なのかわからない。

 走り初めて30分も経っただろうか、快適な居住空間と心地よい振動(高速道路)にいつしか僕は夢の中に入っていた。
 ・・・もしかしたら、いびきをかいていたのじゃないだろうか?
・・・・ふくよかな朱俊橋にもたれて彼女の肩を枕替わりにしてたのでは・・・
 僕の『中国ぶらり旅』はいつもひとの羨むひとり? 旅だった。

本当のことを言うと、僕はこの旅の間、もっといろいろなことを感じたり発見したりもした。

 ●中国人はなぜこんなに咳ばかりするのか?
 ●中国人の本音とたてまえ。
 ●中国人は何故車の窓を開けたがるのか?
 ●中国人と公徳心について
 ●性に対する考え方の違い。
 ・・・・・などなど、ことあるごとにノートにびっしり書き溜めていた。
 そして、紀行記の合間に『
休息休息一下』のコラムで書いてみようと思っていた。

 実際、何編かは書いてみたが、後の殆んどは文にまとめるのを止めてしまったり,書いてから削除した。

 やはり、よく考えてみると、自分が見たり、体験したりした時の中国人だけを対象に、大上段に『中国人は・・・・・・』なんて、中国の国民をひとくくりにしたように書くことは、とても恐ろしい偏見だということに気付いたからである。

 しかし、これはお互いさまの感もある。中国人も特定の日本人の言動から「日本人は・・・!」と非難をあびせることも多い。

 言い合うと喧嘩になるのがおちだから、たいていの人々は国籍を超えてお互いを人間として接するのが望ましい。

 気の会わない時は 血液型のせいにしたり、干支や生まれ星座のせいにしたり、方向、地方のような大は地球規模で論じ合ったり、「アンタは寒いところで育ったから、・・・なんだ。」なんて言い合いも結構でしょう。
「・・・国人」だけはコミニュケーションのときは余り出さないほうがいいと思うことだった。 

 確かに、歴史や風土や時代の教育などから後天的に植えつけられた違いはそれぞれの国や地区によって確かにあると思うが、それを・・・・人と国というカテゴリーでひとくくりに論じることはおかしい。
 僕は兎年生まれのせいか、争いごとを好まない。
 兎は干支の動物の中で唯一、噛み付いたり、喧嘩したり、人に嫌われたりしない動物だからである。

 最後は自分を良い子にして、まあ、自己満足でこの旅の終わりにしたい。

 ここまでお付き合いくださった我朋友に

    非常感謝!!謝謝! 再見。

 

   
 
長沙のバスターミナル
『旅の終わりに』もどうぞ。