大石ケイジ的長沙日記
2004/03/10
昨年の話。鄭さんと国際電話をしました。彼曰く

 「今、範さんは大石さんの住居を探しています。静かなところ、探しています」僕は応えた。

 「鄭さん、範さんに言っててください。街の中がいいよ。その辺にお店がいっぱいあるような」・・・
 そして今年の3月、初めての長沙、空港にて、範さん曰く
 「大石先生、先生の家、とても古いです。でも一番のいいところは、学校に近い。すぐ隣です。街の中です。」

 初めて見た我が家は45年前、初めて東京に行った時新しい学生生活を始めた時と、どう比較していいか?
 いい言葉を見つけ出せないところです。

 部屋は天井は高いし狭苦しさはないのですが、部屋に辿り着くまでの階段付近や窓の建て付けが悪い。鍵も日本では住宅ではあまり見かけません。
 もう殆んど窓の錠は錆付いて化石化している状態です。まあ綺麗好きな人が見たら口を覆うかもしれません。僕は平気です。

 今日始めて、実は洗濯をしました。長沙の気温はなんと26度だったそうです。結構溜まっていた洗濯物を洗濯機を使って洗いました。わが家でしたことが無いので
 ダイヤル操作が分かりませんでした。

でも、何とか脱水まで上手くいきました。干そうと思って脱水機をあけましたが入れるかごがありません。ナイロン買い物袋に入れて干し場に行きました。・・・なんと、干すロープが2メートルの高いところにあるじゃないですか。
 「いったいどうするの?」答えは、ハンガーにかけて鍵棒で持ち上げるのでした。でも、シャツはいいとして10足もある靴下は「どうすればいいんだろう?」

ちなみに洗濯の排水はトイレのタイル場に流します。従って、いつも洗濯の度にタイル場は洗浄されるというわけです。

 この家で一番困るのが台所の洗い場です。狭すぎて顔を洗うのに苦労します。中国の洗面所は・・・と言うわけではなく、これは、あくまで僕の今の生活環境のはなしです。今、長沙市も目覚しい発展の途中です。近辺にも日本に劣らない高層マンション群が一杯建築中です。

リカバリーこそが目的の僕ですから、バックトゥーザパーストこそ願ってもないことで範先生には感謝しているところです。

午後7時頃、角のパン屋に明日の朝のパンを買いに行ったら王俊クンに会った。

 「先生、何処へ行くのですか?晩御飯は食べましたか?」僕は昼が遅かったので夜は抜こうと思っていたが彼とは一度話しをしてみたかったので、

 「何処か美味しいところへ連れて行ってくれる?」と言うと、「いいですよ。」と言う返事だった。

 彼の連れて行ってくれた食堂はテーブルが5つほどのお世辞にも綺麗とはいえないその辺の庶民の食べ物屋だった。

ビールを1本注文し、落花生をつまみにいろいろ語った。彼は湖南の出身でこの4月に本当は横浜の大学に留学するつもりだったらしい。

昨年から急に中国からの留学に厳しい制限がついた。バイトをしないでもある程度生活出来るだけの国からの仕送りが出来る生徒でないとビザが下りないと言うのである。彼は言う。

 「中国人が日本で悪いことをするから仕方ない。中国人がわるいのだから・・・・」と、あの福岡での事件を知らない人は居ない。だから.と言って、この制裁?みたいな措置はどうかと、僕は思う。

もっと、条件外の人それぞれの選考方法があってもいいのではないかと思う。お金がなければ留学できない。これでいいのだろうか?

日本語学校に来ている生徒はそれなりの経費を親や自分で働いて貯めたお金で通っている。

 年間6000元の学費に食事代月に200元、寮費が1年間700元というから、親の所得からいったら結構な金額である。

 そこまで頑張って日本語の習得に励んでいる若者を蓄えが無いからという理由だけで留学を許可しない。
 夢を描き励んでいるこれらの学生たちは、いつの日か
、必ず日本にとっても、良い人材として貢献する人達だと僕は思うのだが・・・・・。

 王俊くんはとても真面目そうな学生だ。日本留学を諦めて、5月に韓国の大学に留学するそうだ。そして、卒業したら、必ず日本に行くと語ってくれた。
 彼と、いつの日か日本で会いたい。と僕は思う。

余談だが、彼の書く文字は素晴らしい、お父さんは書の先生で、近所の人は何か有ると彼の父に字を書いてもらいに来るそうだ。厳格な家庭に育った彼の性格はひと目で分かるのである。
 
 この他に8畳くらいの居間が有ります。TVに応接セ ット、団欒室といったところでしょうか。
 トイレはちょっと紹介出来ません。

僕の職員室机です。快適です。
夏になるとゴキブリが出るそうです。
リビングルーム
寝室兼書斎
洗面も兼ねる。窮屈です。
王俊くん。
王俊君は今、韓国の大学に留学しました。