2003八期通信
八期老同学東京徘徊記
チームワークの八期会とはよく言った
もので、昼食は皆が一箇所に集まったから不思議である。数えてみたら23名程はいた。
 名前は忘れたけどメキシカン風のレストランだった。美味しいナンを食べながらの冷たいビールは最高だった。食事のあとは又ばらばらと別れた。
浜崎クンに奥様から電話がはいったのもこの頃だった。その電話の話はその夜のお部屋パーティの愉しい肴になった。具合の悪くなったレディがいてKクンはホテルに彼女と先に帰ることになった。
 思ったより幕張は遠かった。
結局、またディズニーに戻るのはおっくうになって結局、二人はホテルで夕食をとることになった。

 ホテルノ最上階は結構、素敵な雰囲気があって思いがけずデート気分を味わった。

 ところに携帯が突然鳴り始めた。

聞こえてきた声は聞きなれた浜崎の声だった。

「ワヤドケオットヨ????

 ナンチ?最上階ラウンジでステーキやっちや? よかねぇ〜〜!!
 おいどんなんか、ポテトチップやっど
・・・・・・・・・・

「風呂にゃ入ったとや??」
「一人でや?ウソやっどが??」
「ほんのこんのこちょ言え!」
・・・何人かの小さな声がきこえて・・

「「ゆっくい しちょけよ!心配せんでよかでネ。」
「帰っときゃ、10分前には必ず電話をすっで・・・・・
心配せんでよかでネぇ・・」
ウ ワッハッハッハッハァ!!

7月25日
 5組の伊藤こう子さんからメールが届きました。今回、幹事で何かとお世話になった人です。鹿児島評価No1の女性でした。以下・・・・・

暑中お見舞いとお写真、本当に有難うございました。
 FAXより、よく分りました。昨日、あなたのホームページを見せていただき大学時代、真野美容学院時代とhistoryを知り、又懐かしいペテロ先生の写真をみて驚きました。私は清水中学校時代、ペテロ先生に教わり弁論大会(先生の原稿を丸暗記)に出させてもらいました。
・・・・・・(略)・・・・・・
今回の八期会は鹿児島、福岡、関西,熊本、松本と遠方よりの参加者の方々が後押ししてくださった賜物です。

 たくさんの方々からメール、FAX,お便りをいただき、まだまだ、同窓会の続きのようです。
 ・・・・(略)・・・・・
 本当に、今思い出しても、楽しい会でした。恐らく、2003年のベスト10の第一位だと思います。
 何時までも自分の夢を持ち、きっと中国に滞在できる日が来ることと信じています。精神年齢はいつも20歳!
 楽しく生きましょうね〜〜。

浜崎会長にもよろしく、そしておひげの南郷さんにも。
 すばらしいトリオ!でした。
 
大石様     伊藤こう子より。

伊藤工子様       

  今回は本当にいろいろとお世話になりました。
とても愉しい一生の想い出になる催しでした。
もっともっと若い時期に、出来ることならあの輝いていた45年前に、こんな付き合いが出来たら・・なんて思いがよぎることでした。

尤も振り返る余裕も無く、只、前へ向かってがむしゃらに走り続けていたあの頃では出来なかったかもしれませんね。

これからも前へ向かう姿勢は失ってはいけませんが肩を組み、周りを見、時には振り返り、遅れ組を待ちながら、笑い笑いの人生を八期仲間と一緒に歩きたいものですね。

 最後にひとこと、貴女に対する鹿児島組の評価は満点でした。

             大石慶二より



川崎市の吉村弘子さんも今年の会の幹事でした。とても素敵なナレーションを担当され、森君の撮ったDVにきっと入っていることでしょう。素敵な同窓会テープが出来上がるといいです。お便りが届きました。




こうして私たちの東京同窓会ツアー一日目の夜は早速ハプニングのかずかずを引き起こしながら閉じてゆきました。

・・・・と思っていたところ、
 突然!部屋のドアをけたたましく叩く音!・・・・・
 「ビールをもっ来たド!!」
 ・・と森、南郷、佐々木の男組。
 続いて、????の女組。

 アッというまに僕らの小部屋は10名の闖入者で満杯になりました。
 真夜中の合コンの始まりでした。

・・ここで、突然ですが、
 8月2日(土)に行われました玉龍
同窓会の模様を写真入りでご報告
いたします。
 
こう子さんは右から4人目。
左から古里クン、
伊藤さん、
吉村弘子さんトリオ
右は藤崎くん
朝のバスツアーの
お見送り。
女性軍に占領されてしまったベッド。
男性は椅子を確保
そして・・・・遂に沈んでしまった   男ひとり。
うるさくて、ボーイが飛んでこないか?心配でした
家族へのディズニーみやげを披露する
二日目はこんなスペースはなくへりに座っての
深夜の合コンでした。
八期会皆様

 暑い日が続いていますが如何お過ごしですか?
今、鹿児島は同窓会花盛りです。
 昨日、玉龍高校の同窓会がサンロイヤルで開かれました。
思えば10年前、一生に一度の責任幹事の同窓会が8月8日に開催されました。
あの悪夢のような災害の夜は僕、浜崎、南郷3人はサンロイヤルで集まった景
品の山を整理していました。
景品は同窓会の「お楽しみ抽選会」用一生懸命に集めたものでした。

明日は全国から八回卒が集まり霧島のホテルで前夜祭をすることになっていました。
刻々と入る気象情報に、前夜祭を決行するか?それとも中止するか?ただならぬ
外のざわめきに、整理どころではなくなりました。

霧島のホテルへの中止の場合の交渉。同級生への連絡、もろもろのことが三人の
頭をよぎりました。結局、「道路が危険だし、中止しよう!」と三人で話がまとま
り、
それぞれが、それぞれのところに電話を掛け合うことにしました。
ところが、霧島へも、何処へも電話が通じないのです。まだ、携帯などと言う便利な

のはありませんでした。ひたすら公衆電話のプッシュを何十回打ち続けたことでしょ
う。
もう全校同窓会どころではありませんでした。

自宅から掛かってきた「今夜はホテルに泊っていらっしゃい、こっちは大変なことに
なってるよ」
との妻の声に、ホテルに訊いて見たら「もう空き室はありません」との答え。

とうとうその晩は、僕はサンロイヤルから自宅の新照院まで8・6を生体験すること
になったの
です。救急自動車のサイレンの音をあちこちで聞きながら、高麗橋から大学前を歩
き、
胸まで浸かって西田橋(決壊した)の横をロープで伝いながら、平田橋を越え、三号
線へ出ました。
すっかり川に変身した三号線を全身ずぶぬれで自宅へ帰り着きました。

18回卒の代表幹事の開会挨拶を聞きながら、僕たち三人は10年前のあの日に共有
した時間
を、そして、その後に体験した、それぞれの時間を回想することでした。

 10年後の今夜の会場が一瞬、10年前の空席だらけの会場と重なった瞬間でした。
 ・・・でも、僕らにとってあの会場はどの年度の、どの会場にも負けない自慢の会
場でした。
      そして、あの時輝いていた今は亡き八期仲間たちを偲びながら・・・・

左横顔は熊谷さん。(兵頭)東京から上山憲一郎&洵子
ご夫妻が墓参りを兼ねて出席しました。正面は田中ムツ子さん
ひさびさの参加・永留弘之君
この写真は7月の27日に天文 館の
江戸っ子寿司で開催した8期今年幹事
の7組・1組の会議の三人
全校同窓会のあとに開かれた八期総会懇親会
浜崎君より役員の進退伺いを提出。
留任という事に決まる。幹事を森君と平澤さんに
会計を川口さん。女性幹事代表は木村美子。

抜けないかごっま弁 

                            2組 阿多睦雄

 鹿児島を離れ、北九州で11年、東京で30年のサラリーマン生活を今も続けている。仕事上でも方言なまりが抜けきれず、電話や会合のあとで相手から「ところで、阿多さんて珍しい名前ですね、どちらのご出身ですか?」とよく聞かれたものだ。鹿児島ですと答えると「そうじゃないかなと思ってたんですよ。実はあたいもかごっまです。」と二人で大笑いし、かごっまを話題にして仕事がスムーズに進行する利点も多々あった。その反面、時々自称かごっま、時には玉竜出身?と名乗る若者はどこで調べたものか、怪しげなかごっま弁で<先輩、先輩>とおだてつつ不動産や証券等の勧誘に電話をかけて来られるのにはうんざりしたものだ。

 先日、八期会の同窓会が東京で盛大に開催され、鹿児島、福岡、関西等から多数の同窓生が集まった。卒業以来始めての顔ぶれも多く、かごっま弁丸出しで本当に楽しいひと時を過ごすことができた。同窓生もはや還暦を過ぎて、それぞれ穏やかで落ち着いた表情が伺え、恐らく様々な人生経験を経てこられたであろう年輪の重みを感じました。同窓会に参加してやっぱり本格的なかごっま弁で語り合えるのはヨカねえと思うことでした。実は今年の4月に何年かぶりに帰鹿し、久しぶりに訪ねた元の実家の隣近所のおじさん、おばさん達が今ではすっかり子や孫の代になり、更に山も畑も住宅地へと変貌を遂げていることに驚き、人の世の移ろいをしんみりと実感することでした。一方、錦江湾にどっしりと落ち着いたままの桜島だけは、今も噴煙を悠然とたなびかせつつ昔とちっとも変わらずに、良く帰ってきたねと歓迎してくれているようで嬉しかった。自分のかごっま弁のなまりが抜けきれないのは、女房(5年後輩)との日常会話と鹿児島のシンボル桜島に対する愛着・郷愁心がいつまでも変わらないせいでもあろう。今後とも八期会の同窓会がいつまでも続き、本格的なかごっま弁でお互いに元気で楽しく語り合いたいと思うこの頃です。

 

大石慶二

平成15年83
 先日は、玉龍八期会の同窓会が東京で開催され、鹿児島、福岡、関西、関東等の全国から多数の同窓生が集まり、卒業以来始めて再会した顔ぶれも多く本当に楽しいひと時を盛大に過ごすことができましたね。同窓会のメンバーもはや還暦を過ぎて、それぞれの顔にも落ち着いた円満で穏やかな表情が伺えました。

 大石さんのホームページのことは、先日、浜田紘君からのメールで教えてもらいましたので、早速アクセスしてその豊富な情報にびっくりした次第です。今回、改めて貴君よりメールを頂き有難うございました。

同窓会の会場で浜崎さんから、原稿用紙2枚程度で、何でもよいから原稿文を提出してくれるように依頼されておりましたので、浜崎さんとの約束を果たすべく仕事の合間に書いた面白みやまとまりのない文章ですが、これでよければここにメールで送付します。後は貴君におまかせします。

 お互いに今後とも健康に留意し、元気で次の同窓会で会える日を楽しみにしています。

阿多睦雄君より
メールとエッセイが届きました。
秋の八期通信に掲載しますが。
はやくも、ホームページで公開し
ます。
木場祥雄君から八六の思い出がメールで届きました。

今晩は  木場です。
いつも 適宜な情報送っていただき 深謝します。
十年も前に なりますか 私もさっかぶいで 車で 霧島へ向かっており、
広島過ぎたころ、 鹿児島地方は 大雨でらしい、との情報あり。
熊本で 鹿児島へは 車では 行けないこと判明、 家内を 熊本に置いて
自分だけ 鉄道で 試みたことも記憶しております。
ほんとに 十年一昔 早いものです。 それだけ 年も取っていることですね。
元気で 再開できる日を 楽しみに お互い 体に留意して過ごしましょう!
浜崎様にも よろしく お伝え下さい。

最新情報は更新記録(トップ)から
八期の皆さん!ニーハオ!コマンタレブ!

 今でこそニーハオと言えば誰でもが知ってる中国語ですが、この言葉、未だ登場してから50年ぐらいなんだそうです。中国4000年の歴史からみて、500年はせめて経ってると思っていたのですがビックリです。何でも英語のハウアーユー(好ハオ・ユーあなた)からの訳と聞いて二度びっくりです。
まあ、余計なことは、いいとして、時間過得真快!(シージェン・グォ・ダ・ゼン・クァイ)
本当に、時間の経つのは早いものです。もう立秋ですって、でも僕の上海のメルトモである李黎(リリィ)の信によると因為有“秋老虎”没有過つまり未だ残暑が厳しいのだそうです。14日に来た李黎の手紙は続きます。

我現在常覚得毎天晩上的時間都不?用,因為慶二先生来上海的日子一天天逼近,而我的日語不?自如的日常聊天水平,真希望晩上的学習時間可以長一些,能多学一些日語和慶二先生交流.
    慶二先生最近也很忙バ!

     祝毎天都精彩
     李黎 8月14日

私は今、いつも寄るの時間が足りないと思います。
それはケイジさんが上海の来る日がどんどん近づいて来るからです。 未だ日常の会話のようには話せません。未だレベルが足りません。夜の勉強時間が長くなるのが希望です。長くなれば日本語の勉強が沢山出来て、ケイジさんとの交流も出来るからです。
 ケイジさんも最近忙しいんでしょう!

                 李黎  8月14日


僕は10月25日にサーズ(非典)明けの中国に李黎を尋ねて(はウソですが)長沙市というところへ行きます。
さてさて、また寄り道してしまいました。「徘徊東京」に一向に戻れないで居ます。
 以前(今も少しそうですが)美容師をしていた頃、それはそれは、自分で言うのもおこがましいのですが、ぼくはとても忙しかったのです。(人気があったことは確かですが、上手かったかどうかは定かではありません。何故なら当時、男性の美容師は皆無に近かったからです。)
 一度に10人ぐらいのお客様を鏡の前に座らせて一人で受けていました。全部、僕のお客様なので誰から仕上げをしていいのか、自分で分らなくなる時がよくありました。なかなか目的地にたどり着かないクセはこの時から僕の身体に染み付いているのでしょう。
今も、一度に10冊ほどの雑誌や本を掛け持ちで読んでいますし、3つの中国語教室を掛け持ちしています。
 付き合っている(単に親しいというだけです)中国小姐も片手では少し足りません。・・・・・と弁解しながら。
さて、ディズニーは終わりましたっけ。

そうそう、第三幕「お江戸めぐりはとバスツアー」のプロローグでした。
 いやいや、何が驚いたかって13日朝のドタバタには僕も慌てました。はとバスが8時にホテル前に着くことになっているのに、目が覚めたのが7時半でした。
 相棒の隆くんは未だ夢の中です。

 おまけに昨夜の連夜の飲み会の為、部屋の中は取り乱したまま、・・・顔を洗って、バッグの整理をして、それからの二人の慌て方は半端じゃなかったです。

 エレベーターで一回に降りた時は顔がひきつってたのではないかと、恥じ入るばかりでした。それでも、二人は慌てたそぶりは決してみせず、
 ・・・・・・・「ヤァ!!おはよう!」と待ってるみんなに(耳の下辺はひきつってたかもしれません)が笑顔で挨拶。
 「朝食は済んだの?」と親切に、聞く人がいなかったのが何故だか、嬉しかったです。
・・・・・・「浜崎。僕がチェックアウトをするから、君は宅急便をすませたら・・・」
・・・・・・「そうや。そいなら、そげんすっで。」と浜崎くん。
 この時、彼の鹿児島行きの航空券はお預けバッグの中とは露知らず・・・・
 時間に忠実なA型人間・大石はバスに乗るまで時計を見るのが怖かったデス。
 でも、そんな気配は決して見せず、見送りの八期仲間や、はとバスの運転手さん、可愛いバスガイドさんにごくごくナチュラルな朝のご挨拶を交わすことでした。

 そして、バスは今日の第一目的地「柴又帝釈天」へと
向かいました。


さて、又ここで1組の東川敏治君から原稿が届きました同窓会参加の想いを45年前に遡りながらとぎれとぎれの記憶を解きほぐしながら寄越してくれました。

 八期通信で紹介する積りですがこのホームページをご覧の仲間に早めにお届けしたいと思います。

 「人はそれぞれ、だれも思い出さない記憶を持っているものだなぁ。といろいろな仲間の原稿を読みながら思うことです。

以下、彼からのメッセージ・・・・・

昨日は昼前から前の職場のOBと囲碁をパチリとやった後飲み会がありまして帰宅が遅くなりました。
メールを開いたら貴君から連絡が入っていました。

いつも八期∞通信愛読しています。
マリの彼女あれは傑作でした。
憂いを秘めて、はにかんだような微笑
まさにマリのヴィーナスでした。

通信発行には人知れず多大のご苦労が目に浮かびますがこれからも継続発行をお願いします。

ところでご依頼の件添付ファイルで送信します。
ご査収ください。われながら稚拙な文章で恥ずかしく
如何様にも添削はご自由にお願いします。


東川 敏治
  〒236-0005横浜市金沢区並木1丁目21-3-401
   tel/fax     045-774-5523
   携帯電話 090-2335-9796
   E-mail    togawattt@ybb.ne.jp







   同窓会初参加体験記  壱組東川敏治

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今年も夏の全国高校野球大会が中盤を迎えようとしています。関東地方は冷夏で今ひとつ盛り上がりに欠けていますが八期会の皆様その後はお元気でしょうか。

私はさる七月十二日(土)梅雨空の蒸し暑いさなか東京駅に近い八重洲富士屋ホテルで開催されました玉龍八期会なる同窓会に出席しました。

四十五周年の節目の記念大会を気にもとめずに卒業後初めての出席でした。会場では受付嬢?に何組ですかと誰何され自分の組も咄嗟には思い出せずいきなりカウンターパンチを食らった幕開けでした。

今回は五組の皆さんが担当幹事とのことで古市君が手馴れた様子で総合司会を勤めていました。
男子三十一名女子三十二名総勢六十三名で和気藹々と始まりました。

幹事の皆さんの自己紹介のとき久永君が五組で席順二十三番と事も無げに答えていましたが彼の記憶力に驚くと共に自分の組さえ忘却
の彼方とは言語道断と反省するのみでした。

暫くして私と同じ組の西山君との出会いで突然昔のことが蘇ってきました。
当時お互いに剣道部に所属していたのですが、めっぽう腕が強く負けず嫌いの西山君と何回かお手合わせをしたのですが、剣道と云うよりチャンバラに近い果し合いで篭手をはずした二の腕や胴を外れた脇腹を竹刀でしたたか叩かれてミミズ腫れになったことをなぜか唐突に思いだしました。


それにしましても西山君は当時の面影をそこはかとなく残しながら、且つスマートで物静かな風貌は、なぜか三年B組の金八先生を髣髴させるに十分でした。

この度の同窓会に出席してみようかなと思い立ちポンと背中を押して下さったのが幹事の吉村弘子女史森繁君でした。

吉村さんからは八期同窓会二次会の案内を戴きまして、その後旅行している留守中に何回か電話を、そしてFAXで会費は会場で徴収する旨の連絡がありましたので確認の電話を致しましたら今回は、鹿児島・関西・九州各方面から大勢出席予定なので是非出席するように念を押されました。

私は吉村さんのことをあまり覚えていなかったので下池和彦君に彼女のプロフィールを問い合わせたところ当時清水小の
「竹ノ内ヒーチャン」と言えば知らん人はいない、幼い時は(コメトキャ)ムゾカッタガネ今度会ったときは宜しく伝えてくれと伝言まで頼まれたことと、森君からは、昨年十二月発行の「八期通信」第八号で錦江湾一周サイクリングの記事中に私の名前を発見して、当時同じ町内で大龍小学校からの同窓の誼で懐かしくなり編集局の大石局長から私のメールアドレスを聞き出したとのことでそれ以来Eメールでの遣り取りがありました。

その森君曰く、今回の同窓会は鹿児島から十三名ほど出席するので私にも是非参加するように直前にメールがあり興味津津出かけた次第です。

森君とは四十五年ぶりに出会ったのですが当時の色白で丸顔の面影は少し色黒になった他は、そっくり
そのままで巡り会った途端にすぐ彼とわかりました。

その森君が大龍小学校からの同窓生を紹介してくれました。
上山慶一郎君・新名義三君・横山摩子さん・龍岡順子さんそれに森君と私で計六名が合致したようで早速別室で
記念写真をとり僅かな時間でしたが会話もできました。

この時間帯に少し気が付いたのですが、男女共学とはいえ当時は、男子七歳にして席を同じにせずと言うバンカラな風潮のもと、気弱な私などとても女子の教室を知ることもなく、自分の組以外は交流もあまり無かったように思います。


従いまして、もともと記憶にない方を思い出すことは、困難を極め頭痛さえ伴ってきた丁度そのとき、八期
会のフセインかゴマアザラシのたまちゃんか見紛うばかりのひげの木佐貫君がお湯割焼酎を片手にほろ酔い気分で語りかけてくれました。


先ず焼酎をのめ!然らずんば自ずから道は開けると、悟りきった口調で当時の思い出話からゴルフ談義へと話は尽きず、そのうち

なぜか日本電子専門学校へ進んだ萩原和典君の消息を尋ねられました。私も永い間交流が無い為ご存知の方は是非とも教えてあげてください。

時が過ぎ宴も竹縄の頃持ち合わせたデジカメで二組の阿多君と藤崎君を撮ろうとしたところ陽気な宴会部長さながらの柴田君が割り込み結局三人を対象にメールで写真送信を約しましたが、あとで実物と名前が分かるように名札にピントを合わせていたようです

。ところで前述の錦江湾一周の記事に関しては私にも堀田昌子女史から投稿の依頼があったのですが、ぼけの始まった頭では、三日前のことを思いだすのも至難のことゆえ、半世紀前のことなど記憶は完全にフォーマットされ止むを得ずそのままにしていました

。堀田さん申し訳ありませんでした。それからあの記事を他人事みたいに読んでいるうちに断片的ながら思い出したことがありますので遅れ馳せながら追加して補足を致します。

そもそも私にとって錦江湾に浮かぶ桜島は、魂で
あり郷里の象徴と郷愁を仰ぐ情熱の島でありました。

櫻島は、大正の大爆発から暫くなりを顰めていたため小学校から中学校時代は遠足で登山をしたものでした

。それが昭和三十年我々が中学三年の梅雨空で雨模様の授業中のさなかに突然大音響と共に噴火活動を復活したのでした。

当時はテレビもなくNHK鹿児島放送局の臨時ラジオニュースで事の次第が分かったのですが、数日後晴れ渡った青空に櫻島が雄大にもくもくと噴煙をふきあげた有様は、自然の織り成す生き様に言い知れぬ強烈な感動をしたことを今でも覚えています。

そして錦江湾これも毎年袴越までフェリーで行き帰路は約四qを磯浜まで遠泳したこと覚えています。

伴走する級友たちのボートから投げ入れられた飴玉を取り損ねて深く潜りすぎ方向感覚を失いつつ、暗く深い海に引きずり込まれるような感覚に耐え難い恐怖感を憶えながらも、もがき苦しみながら浮かび上が
ってきたこと。

そして今は亡き級友二人に錦江湾往復計画に誘われましたが、あのときの恐怖感が頭をよぎり体力に自信が無いことで断ったものの、彼らはその後実行に移し翌日の夕暮れに袴越で村人が目撃した後は、二人共に行方知れずとなるなど強烈な印象のある桜島と錦江湾でした。


そしてその頃、私は不退転の覚悟で上京を決意していました。

そのために故郷と高校時代の思い出に何かイベントを考えていたのは事実のようです。

そして都合よく下池君から冥土の土産にと言ったかどうか定かではありませんが、櫻島一周をしないかと持ちかけられて陸上ならば何とかなるベーと気楽に出かけたことは憶えています。

具体的な日時や、道中のことや、道連れに他に誰かいたかどうかは記憶にありません。握り飯を頬張りながら溶岩道路約三十qを唯黙々と歩いたことは間違いありません。

それから暫くしてからでした。
何方が発案者か今となっては知る由もありませんがサイクリング一周のお誘いがあり柴田英紀君・堀田昌子さん・喜井としえさん・野呂道子さん・梶原紀代子さんそれに私の計六名でサイクリング一周に出かけたのでした。

四人の投稿記事は一応に桜島一周の予定がどこで道を間違えたか錦江湾一周にとなっておりますが私の記憶では、前述の通りすでに桜島一周は徒歩で済ませておりましたので、自転車で行くからには当初から錦江湾一周約七十二qの走破を企てていたものと思います。

サイクリング一周の計画は下池君も誘ったか少なくとも相談はしたようです。
その証拠に今回の記事を見て彼は、反対方面から我々を歓迎する形で敷根峠まで自転車できて待機していたものの、何時までたっても合流できず腹を立ててもときた道を一人で帰ったとのことをEメールで告白してきました。

何れにしましても錦江湾一周は私の夢であり実現できたことは今でも嬉しく思っています。

肝心の道中の出来事・会話まったく記憶にございません
.。パンクを絆創膏で修理したこと、柴田君と野呂道子さんがいとこだったことは今回の記事で初めて知るところでした。

むしろ私は、サイクリング六人衆のツナガリそのものが全く理解できずに今日まで悶々としていました。

同窓会の席上で堀田女史に母親が同じ職場でかつ近所に住んでいたことから唯一の幼馴染であった西岡用子さんの消息を聞き出し連絡をとって少し当時の経緯が分かってきました。

これも同窓会に出席して知り得た貴重な情報でした。会の締めは皆で玉龍の校歌を合唱し柴田君の力強い熱の篭ったエールで拍手喝采のなか終了しました。

私は初めての同窓会だった訳ですが流石に走馬灯のごとく記憶は回復せず四十五年の歳月を重く感じました。

しかしながら限られた時間で多くの皆さんと会話ができたことが最高の喜びでした。

今回出席の皆さんは、自分のことはさて置きそれなりにすっかり変化した方と、当時とあまり変わらない方の二極化が顕著でありました。

特に女性はとても同年代とは思えないほど若さを秘めて華麗に見事に変身していました。

これからの人生はお互い還暦を過ぎていつまでも元気でいて欲しいのが私の願望です。


そしてまた機会があれば存命中の間に顔を出したいのが私の希望です。

幹事の皆様方本当にお疲れ様でした。

心に残る素晴らしい同窓会を演出して頂きましたこと参加者を代表しまして厚くお礼申し上げます。

どうも有難うございました。

                        東川 敏治

花のお江戸のはとバスツアー(帝釈天・江戸博物館・お台場徘徊)
江戸東京博物館
柴又の帝釈天
浅草の名物・からくり時計
富士屋ホテル前をスタートする
はとバスツアーのご一行様を見送る
藍子さんたち・・・・
総合司会の古市君
左から村上・西山・満留君
ナレーションを担当してくれたヒーチャンこと吉村弘子さんと熊本から参加の加納さん・そしてゴマアザラシこと木佐貫君
左の六人衆
藤崎・柴田・阿多君
挨拶をする堀田女史
手前は上山武郎君と古里君
堀添君と木村さん
徘徊3へ続く
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