2005/01/08

長沙科技日語学院4代目派遣教師です。






2005年3月新学期から長沙市の日本語学校(鹿児島市日中友好協会友好校)院長:範例で教鞭をとることになります竹下君をご紹介します。
 詳しくは彼本人から自我紹介があると思いますが、彼は大学卒業後、教師一筋、根っからの熱血先生です。
 私、大石とは玉龍高校時代の同学同班です。
今、合肥市の大学で日本語教授をしている加治佐 晃氏とも同じ鹿児島市日中友好協会のメンバーです。それぞれの夢を追い続ける夢追い人といえます。
 今から3〜4ヶ月の間、長沙市での異文化体験や教師生活を通して学生や中国の若者達とのいろいろな交流の思い、感想などを書き綴ってもらおうと思っています。
 彼の筆を通して中国華南地方の現在の様子などが伺えたらと、僕も楽しみにしているところです。

写真:手前、昨年末開催『スピーチコンテスト』の時、タイム係りを担当した竹下氏。


2005/01/14

旅たつ前の心境
● 晴れがましいステージに立ち、気恥かしいといった心境 で入力しています。

● さて、いよいよ3月初旬に渡航することになりました。 日本文化の源流である中国にはもともと関心がありま して、数少ない海外体験ですが、これまでにこの国だけ は2回行きました。3回目は、しばらく滞在し教壇に立 つことになりました。中国の若者と共に勉強ができるこ とを楽しみにしています。
● 必要不可欠の中国語は、行くことが決まってから泥縄式 に勉強を始めましたが、憶えた先から忘れます。最近は 開き直って、なんとかなるだろうと思うようになり、気 が軽くなりました。 

● しかし、どんな報告ができるか気がかりで、行く前から 気が重いです。
2005/02/18

準備ができました

授業参観 ●赤塚学園(鹿児島市)日語教室(4時間)

予備知識 ●世界の歴史(中央公論社)
      ●中国の諸事情(文芸春秋)
      ●中国ビジネスのむつかしさおもしろさ(税務経理協会)

持参出版物
     ●外国人が日本語教師によくする100の質問(バベル・プレス)
     ●日本留学試験対策 記述問題テーマ100(凡人社)
     ●ドキドキ子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●ワクワク子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●イキイキ子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●わかりやすい俳句の作り方 (日本文芸社)
     ●新祥高等地図(帝国書院)
     ●世界と日本の地理統計(古今書院)
     ●日本の抒情歌(野バラ社)
     ●mini(若者女性向けファッション誌)
     ●まんが ベルサイユのばら(中央公論社)
     ●    千と千尋の神隠し(徳間書店)
     ●写真集 日本の結婚式(自作)
     ● 鹿児島市(自作)
     ● 阿蘇・湯布院・霧島(自作)
     ● 雛人形・日本料理
     ●鹿児島大学・鹿児島国際大学・赤塚学園 学校案内
     ●新聞の切り抜き

航空券
   ●鹿児島空港13:30発上海浦東13:50着(MU054便)
●中国東方航空は、上海でのリムジンバス移動を含めて3時間以上の余裕を求めている。
    ●上海虹橋18:30発長沙黄花20:10着(MU5235便)             
預託荷物
    ●上海の浦東空港(国際空港)から上海の虹橋空港(国内空港)乗り継ぎの場合、浦東空港(国際空港)で受け取り、各自で虹橋空港まで運ばなければならない。
2005/03/03

長沙に着きました



 途中の虹橋空港では、空港ビルへの入口がわからず、公安(警官)に案内してもらったり、待合室で知り合った人に、人民元への換金をしそこなった話をしたところ、自分の財布を取り出し、お金をあげると言い出した方にお世話になったりしながら、予定通り長沙に着いた。範先生ご夫妻の笑顔でのお迎えに、ホッ。

 憶えた中国語が、いざとなるとなかなか出てこないものだといぅことを体感。

 最初の授業は「会話」だった。学生は積極的で明るく、大変楽しい授業になった。

 学校周辺には、古いタイプの市場がある。今後の異文化体験が楽しみだ。
2005/03/08
カルチャーショック



 昼食の後、校外に出てみた。学校の前から始まる細い通りでカルチャーショック。

 練炭を燃料にした小型のドラム缶状コンロを歩道に据え、背広を着た食堂の主人がフライパン一つで器用に色々な料理を作っている。

 背広を着て天秤棒を担いだ物売り。ビルの谷間で農業用耕運機に山のような荷物を積んで運んでいる人。
荷車に石炭を原料にしてつくった練炭を積み、おもそうに引いている人。

 肉屋さんは、入口に豚肉の塊をすだれのようにぶら下げて売っている。かしわ肉販売店では店内の金網の中に生きた鶏がいて、その横で背広を着た主人が鶏を解体している。
 
 長沙は近代的な都市の一角に、古いスタイルの市場が残っている大都市だ。
2005/03/09

愛すべき学生たち



学生食堂の同じテーブルで食べた4人の学生から本屋に誘われたので一緒にバスで中心街まで出た。
 私のバス代は学生が誘ったのだからと言って、往復とも学生たちが出すと頑張った。

 1階から5階まで本屋になっているビルで買い物をした後、洋服を見たいというので、終日歩行者天国(歩行街)になっている通りを歩いた。ここはスリが多いのでカバンは前のほうで持つように注意してくれた。

 帰りにロールケーキを買つて、私が街路樹の下で食べる提案をしたところ、学生達は笑って受け入れなかった。明るく、お行儀のよい学生達だ。

 この国では横断歩道は無いのと同じだ。この日は50メートほどの大通りを3回ほど横断したが、初めての私には大変な恐怖だった。その時、学生達は私の袖をつかみ、囲みながら渡ったってくれた。
 車の洪水の中を安全に横断するには、ゆっくり歩くのがコツのようだ。

2005/03/10

長沙大学と私の宿舎



 長沙科技日語学院と私の宿舎は、長沙大学南院(短期大学部)のキャンパス内にある。 日語学院は、写真の校舎の5階を長沙大学から借り受けて開校している。

 校門は24時間2人の守衛が見張っているため、校内での生活は安全のようだ。短大生の男女の寮も校内にある。どの寮の入り口も守衛の家族が住み着いていて、金属の扉で守っている。

 校内にはお湯だけを売る販売所がある。寮生は、お茶用のお湯は魔法瓶を洗髪用のお湯はバケツをさげて買いにくる。お湯販売員も、販売所に家族で住んでいるため何時でも対応できる。

 私の宿舎は5階建て女子寮の隣にある2階建ての建物だ。女子寮の横を通るようになっているが、洗濯物のオン・パレードで、下着でもハンガーに堂々と干してあるので目の毒だ。

 建物の入り口から自分の部屋にたどり着くには、木造扉・金属扉・木造扉の三重に守られた二階だ。それぞれの扉は鍵で開閉しなければならないので、最初は往生した。応接室は14畳、寝室10畳、台所6畳、トイレ兼洗濯室兼シャワー室兼洗面所が4畳くらい。洗濯干場は屋上になっている。

2005/03/14

学生食堂の紹介



 校内には学生食堂がある。最初に「不要辛」(辛のはいらない)と言っておいためか、学食に入ったとたん服務員が私の顔を見るなり生の丸いキャベツをかざして合図をしてくれた。私に特製料理を作ってくれると言うのだ。ありがたい。

 服務員の皆さんはいつも笑顔で迎えてくれる。さらに日語の学生の通訳を通じて卵は好きかとか、その外に何が好きかと聞いてきた。

 ご飯は粘りが無いため箸の間からポロポロ落ちる。おかずのほとんど全部が炒めものだ。野菜も炒めてあるため、全般的に脂っこい。しかも、ほとんど全部唐辛子が利いている。豚の血を炒めた物は体に良いと言うが、独特の臭いと口の感触で食べにくい。たまに出される肉はごぼう程度に硬い。この地域の人は辛い料理が自慢だ。
 
 料金の支払いは、事務室で100元のカードを買って学食の窓口の電子機械に差し込むと料金が表示され、その分だけ引かれ、残金もわかる仕組みだ。注文する方は、厨房の平たい容器に入ったおかずをガラス越しに見定めながら指差す。

 学生のほとんどは自前の容器を一個持参する。容器は直径15cm深さ13cm位のものが多い。これを差し出すと服務員がおかずをおたまで適当にすくって食器のご飯の上からかけて渡す。このご飯とおかずをかき混ぜてスプーンで食べる。

 料金は朝食のうどん(米が原料)が2元、ご飯とおかず3品程度で平均5〜8元くらいだ。

 思いは,食あっさりした日本料理だ。そして、栄養の偏りと脂肪太りが気になる。

2005/03/14

どこででも勉強



 日曜日14:00頃から4人の学生と湘江の右岸を歩いた。砂場やイベント会場も備えた市民の憩いの場が延々と続いている。

 この日は無数のという表現が適当なくらいの凧が上がっていた。飛行機凧。鷲凧など色々だ。玉を追う龍の連凧は見ものだった。ここでの凧揚げは、大人の遊びだ。

 散歩しながら日本語や日本の習慣の勉強会になった。帰りの裏町の小さな八百屋の前では、野菜の名前の質問が始まった。私が日本名を言うと学生はメモする。話は大根足にまで及んだ。

 店の主人や通りの住民も遠巻きに見て、たいへんおもしろがった。通りがかりの男性は、自分の買い物袋から、ねぎやジャガイモなど取り出して聞き始めた。
楽しい学びのひと時になった。学食の夕食時も1・2年生が集まってきて、テーブルを囲んで日本語の勉強だった。

 一度、社会経験を積んだ学生は、勉強に対する姿勢が真剣だ。

2005/03/14

お風呂の習慣



今日は,持参した写真で日本のお風呂などの習慣について話をした。

最近の中国での傾向として、外国の経験を持つ一部の裕福な家庭は、お風呂付のマンションを買い求めるようだが、一般的には北の亜寒帯の東北地区から南の海南島の熱帯までシャワーである。物心付いた頃から一人で浴びるため、他人の裸体を見る機会はほとんど皆無。

日本は,海洋性気候のため湿度が高く、汗をかくためほとんど毎日お風呂に入る習慣があること。お風呂は、各家庭にあり小学生の頃までは親子のふれ合いの場になっていること。また、火山列島のためマグマの熱を帯びた温泉が多いこと。温泉は広いプール状になっていて、最近は露天風呂に人気があることなどの説明をした。

湯船に入る時の注意事項として、一家全員が同じお湯を使うため、お湯は抜かない。お湯を汚さないために体を良く洗ってから入ると共に、タヲルを入れないこと。

見ず知らずの人同士、一緒に入る習慣がある事には動揺を示したので、つい脱線して、シャワーを浴びている時、誰かが入ってきたらどこを隠すかと質問したところ、何の反応もなかった。

照れ隠しに、ヨーロッパの女性は胸だと何かの本で読んだことを話した。日本人のあなたは・・・?。

2005/03/15

さわやかな日本の歌に脱帽



 昼食時間に授業を持っていない一年生のクラスを覘いたところ、張家界出身でガイド経験の宋逢春さんから日本語の読みのチェックを依頼された。

 この人もラ行がナ行の発音になる。【湖南人にはラ行の発音がむつかしいらしい。日本でも大分の人は「せ」が「しぇ」になって「しぇんしぇい」(先生)、根っからの江戸っ子は「ひ」が「し」になって「しびや」(日比谷)なる傾向にあると何かの本で読んだことがある】

 発音の修正に手間取った後、短文の読みの手伝をしていたところ、いつの間にか周囲の学生も付いてきていた。

 次に日本の「さくら」・「四季の歌」の歌をを教えてくれというので、私が模範?を示して、後に続かせる方法で練習を繰り返した。終わった時は壮快な気分になっていた。歌うことは精神衛生上じつに良いことを再確認。

異国で歌う2曲のさわやかな歌に脱帽。

2005/03/18

初めての日本文化体験
夕方、範先生と先生の車で長沙市の中心地にあたる天心区白沙路にある碧水藍天温泉浴場に出かけた。。

市の中心にある浴場にしては大きな建物で、日本でいえば観光地の中規模総合温泉だ。車は歩道が駐車場。入口で2人の服務員の男女が、大きなガラスのドアを開いて迎え入れる。従業員がやたら多いので、相当の利用者があるものと予想される。

日本の温泉施設を模しているそうで、日本の江戸時代の美人画が廊下のいたるところに飾ってある。露天風呂と廊下の要所には、日本の歓楽街のどこかで見かけたような縦長の赤いちょうちんが架けてある。

まず、1階のシャワー室で体を洗う。浴槽は露天風呂・漢方薬浴槽・人参浴・木炭浴・水風呂・に蒸気風呂(入浴客が真っ赤に焼けたところに水をぶっ掛けると室温が急上昇する)と多彩だ。

風呂の後、二十歳前後の服務員の青年から体のあかすりをしてもらった。ベッドに上がり、まな板の鯉のごとくなり、体の裏・表ともに隅々までしっかりやってもらった。

仕上げは紙パンツと浴衣に着替えて2階の美食広間に上がって夕食。バイキング式の中華料理(約20種類)、お菓子(約5種類)などが並んでいる。長沙のビールもよく冷えていた。

夫婦・家族duれ客もいたが、3月8日は国連女性デーと言うこともあってか、ピンクの浴衣を着た女性たちだけが目立ち、おもいおもいの姿勢でゆっくりくつろぎながらおしゃべりしたり食べたりしている光景は壮観だった。

珍しいものを見て、体験した日だった。

2005/03/18

勉強は日本語ばかりではない
昼食時間に2年生の教室に顔を出したところ、日本のドラマを見ませんかと言ってパソコンとDVDを用意してくれていた。ある日「先生・・夜は一人で何をしていらっしゃいますか、退屈でしょう」というので、私が「テレビを見てもわからないので、ほとんど見ません」と話した学生だった。

DVDは岩下志麻などの出演している作品である。物語は、海外勤務の若者が台湾人の花嫁を旧家に連れ帰ったところから始まった。

日本の古い仕来りを強引に踏襲する祖母と、合理的な考えの花嫁との確執のおもしろさが理解できるようで、一緒に見た学生たちも大変おもしろがって見ていた。

日本語を履修する学生は日本文化にもたいへん関心を持っている。心根も優しい。

2005/03/21

外国人のぎこちない発音
授業で学生のぎこちない発音は、どこに原因があるかを注意深く分析した。

その結果、「とまって」の「っ」のように詰まる感じの促音、「きしゃ」の「ゃ」などのような拗音、「ぼくん家」のように所有や所属を表す「の」から転じた「ん」の格助詞、ラーメンのような「―」の長音符号など、しっかり発音していないことに気づいた。

さらに、なれない発声のため口の周囲の筋肉が思うように動かず、吃音的発声になることもある。

これらの点を克服すると、より流ちょうな日本語の発音に近づけることを自覚させたい。

2005/03/24

警備の厳しいスーパー
昨日のスーパーでの買い物の際、パンだけはレジがなにやら叫んで、売ってくれなかったので、今日は学生と出かけた。

買えなかった理由は、パン類だけはその場の係りに値段票を付けてもらってから、レジに持ってゆくシステムになっていたのだ。パン類の中には客の求めに応じて切売りするものもあるため、このコーナーだけで数人の服務員がいる。

その後、学生はメモを取りながら、魚類や野菜類の日本語名を勉強しながら回った。ところが服務員が語気を強めて抗議に来た。値段をメモしていると勘違されたのだ。店内は撮影禁止でもある。

支払いをレジで済ませた後、出入り口の男性監視員に領収用紙と買った物品をチェックされて店外に出る仕組みだ。

抗議は、業者間の競争の激しさと、店内に過剰なまでの監視服務員を配置している結果の出来事だった。

2005/03/24

気になる一人っ子政策
宿題にしていた「自己紹介」の作文を読んで驚いた事の一つに、兄弟がいることだ。最も多い学生は3人兄弟だった。

この国の「一人っ子政策」はどうなっているか聞いてみた。その結果、都市では1人。一般の農村部では最初に男児が生まれると1人子の家庭になるが、最初に女児が生まれたら4年の間隔をおいて次を出産できる。これを繰り返して男児が生まれるまでできる。違反したら罰金になるが、金額は省によって違う。少数民族は特別扱い。

女の子が生まれると、周囲が喜ばない風潮があるようだ。お陰で?男女比は、男120:女100と聞く。結婚問題が起こるのが心配だ。

結婚は男性の場合22歳以上、女性は20歳以上。これにもいろいろな説がある。

広い中国では政府のご意向(法律)が浸透するのに時間がかかるのだろうか。
2005/03/24

雪の日 心温まる日

 3月12日(土)昨日は小雨が降っていたのに、今朝は雪に変わっていた。緯度的には奄美大島と同じながら8cmもの積雪だ。

さらに断水が重なった。水を買い置するためにドアを開けたところ、ペットボトルに手紙を添えた買い物袋が置いてあった。

竹下先生
こんにちは。金曜日から日曜日の昼まで35時間水がありません。用事があれば私たちは手伝いに行きましょうか。今雪が降っています。天気は寒くなりますからお体に気をつけてください。多く着てください。
私たちの寮の電話番号:                                ケ美華 程艶
                                  2005.3.12                                                                             
感激していたら、楊瑞娟さんと劉艶さんが来て公園に誘う。写真を撮るのに絶好の雪日和だという。昼食を取ってからバスででかけた。バス代は安いですからと私に払わせない。

市内はいくら乗っても1元だ。着いたところは烈士公園だった。革命初期に戦死した湖南省出身の方の写真がずらりと飾られている。元ガイドだった楊瑞娟が一生懸命説明してくれた。

毛沢東の奥さん・弟・息子さんも戦死しておられた。毛沢東は農民を味方に付けない革命は成功しないとの信念から、この地方の農村部で力を蓄えたことを思い出した。

公園はたいへん広く、きれいな雪景色だった。

帰り着いたところに範先生ご夫妻のご訪問を受けた。雪の降る寒い日になったので寒さ対策のことと、断水で困っているのではないかとご心配いただいてのことだった。恐縮・感謝。

夕方、学食に行くと、水はあるか、お湯をやろうと言ってくれるので魔法瓶満杯のお湯をいただいた

寒い日であったが、心の温まった一日だった。

間違っていても分かる文章
宿題にしていた「自己紹介」の作文を添削して驚いた。高校を卒業してこの学校に入ってきたものと思い込んでいたところ、なんとほとんど全員が23歳前後で、最高齢は50歳である。

ほとんど外資関連の会社で働いた経験者だ。

いつか両親を連れて日本を旅行し、さくら・富士山を見て、着物を着てみたいという夢を持っている。日本は憧れの国だ。多様化の進む日本。期待に応えられるか心配だ。

学生たちにとって、書きにくい文字は「あ・か・さ・す・そ・た・で・ね・れ・ジ・自」であった。

気になる表現としては「私は明るい人です」「私の性格が明るくて好奇心が強い人間だと思います」などがある。
和語(日本語)を漢語(中国語)で書いている例として、景色が景物・明日が明天・才能が細胞・夢が夢想など。
日本文化と中国文化が近いための間違だ。「中国は日本文化の源流だ」と実感。

2005/03/28
いつでもお嫁に


3月13日(日)楊瑞娟・ケ美華・程艶・劉艶・張娟さんが料理の材料持参で遊びに来て、にぎやかに昼食を作った。事前に腕自慢をしていたが、卵のスープ・豆腐料理・野菜炒など6種類の料理に果物を添えた本格的中華料理だ。

食べながら日本の食事のマナーをいろいろ聞かれた。中国では主座席(上座)は東側と決まっていて、若者でも守るが、昔あった食事時のマナーは壊され、若者は知らないという。中国の革命にとって伝統文化は清朝時代の負の遺産ということだったのだろうか。

後片付けも見事だった。魔法瓶とやかんのお湯をいっぱいにすると共に、床や外の階段まで雑巾がけして、ゴミは持ち帰った。

細かいところまで配慮の行き届いた後片付けだ。これなら何時でもお嫁に行ける。
ほんとうに義理堅い

夕方、シャンプーと台所洗剤を買に出た。スーパー(超市)で日本語・カタコト中国語と五体を使って表現したところ理解してくれて買えた。

ついでに卵も買うつもりだったが早口のレジが受け付けない。売り場で値段をつけてもらえとの感じだったので引き返すと、張娟・呂麗君・劉艶さんが声をかけてくれて、何個でも量り売りすることがわかった。

張娟さんが「他に買う物はないですか」と言うから、今までの買物は「超市」だけだったので、買ったことのない商店街の果物屋で、1斤(500g)8元の表示がしてあるランブータンを買った。ここも量り売りをしてくれた。1個18円だった。

学生は見たことも食べたこともなく、勿論名前も知らなかった。手にとって、こんなものが食べられるんですかと言いたげに「たいへん硬いですよ」といった。試食してみようと言って配ったところ、お返しに黄色のマンゴー(この国の最南端にある海南島の産物)をもらった。

いつも思うことだが、ほんとうに義理堅い。
2005/03/28
湖南省は米どころ

買い物に出た。ヨーグルトは125グラム入り1カップ0.9元(1元=13円)、卵10個8.88元。卵のほとんどは鶏小屋から直通で持ち込んだ感じだ。その隣には薄緑色をしたアヒルの卵、さらにその隣にはウズラの卵も山と積まれている。

地元の人は「湖南省は農業省です」と胸を張る。調べてみると中国33省中、米は1位、豚肉2位、みかん類3位、サトウキビ・タバコは4位、茶5位の生産順位だ。店内の野菜の種類は多い。

日本人の私には野菜の鮮度が少々気になるが、生の野菜を食べる習慣のない中国では問題ないようだ。すいかや小粒のりんごはきれいだが、バナナやマンゴーは遠路運ばれてきたもんだという感じ。
内陸のため魚は近くの川や湖で取れたものが多いように見受ける。鮮度は魚の下に氷を敷き詰めて保たれている。水槽に生きたまま販売されているものも10種ほどある。

近い将来、梱包材料や冷凍輸送手段などさらに進歩するだろう。

日本の偽札問題は?



教科書に「どこでお金を換えますか?」の文章が出てきたので,手の切れそうな日本の一万円札を回し見させた。たいへん喜んで見てくれた。

福沢諭吉についてどんな人物かとの質問が出た。日本のお札は教育家・小説家・思想家などの顔写真が使われることを説明したところ意外な顔をした。中国のお札は、5・10・20・50・100元札のいずれも、心から尊敬している毛沢東だから無理もない。

ところで中国での偽札は常習化している。100元札の偽札を判断するには、まず目の前にかざして左下の100の数字が薄緑に見えることを確認し、だんだん傾けて斜めから見た数字が黒色に変われば1次合格。次に毛沢東の洋服の襟の付近をなぜる。ここでざらざらを確認してはじめて合格だ。

スーパーマーケットのレジ係りなど100元札を見たら目の色が変わる。客がいくらたくさん並んでいても、必ず一枚一枚「じっくり」時間を掛けて確認する。その眼差しは真剣そのものだ。

中国人13億の経済活動で、お札の「じっくり確認」が無かったとしたら、中国のGNPが数パーセント上昇するのは確実だ?

春のような日に




4月1日(金)春が近い暖かさの今日、昼休みに徐さんをモデルにした市場の写真撮りに行った。1箇所で拒否されたが撮った後だった。

昼からの私の授業に呂麗君さんと張娟さんがいない。誰も知らないため気になった。休み時間に授業の「会話」についていけないようだとの話が出た。夜でも宿舎に来るよう寮仲間に依頼した。

授業終了後、ケ美華・易枝燕・程艶さんが湘江に行こうと言うのででかけた。岸辺では春霞の空にたくさんの凧が悠々と泳いでいた。

夜、芦娟さんが呂麗君さんと張娟さんを連れて宿舎に来た。授業を休んだ理由は、急に胃が痛くなり張さんが病院に連れて行き、欠席届け依頼は携帯メールで寮仲間に依頼しておいたのだがとのことだった。一番若くおとなしい呂さんは、寮の集団生活で気を使うのだろうか。

今日休んだ授業分は休日の明日9時から補講をすることにした。

MADE IN CHINA
板書しておいたラジオ体操の歌詞を指差しながら聞いてもらった。体操は私がやってみせ、日系企業ではこの体操を仕事始めにやって、体をほぐす会社があることを付け加えた。

この時,日本から持参したラジカセを、中国製だと言ったら全員が目を丸くして「ぇえ〜」と驚きの声を上げた。私の持っているものは全部日本製と思い込んでいたようだ。日本メーカーが中国で造ったもので、安くて性能が良いと付け加えた。

放課後の雑談に「日本のメーカーのものでも故障するのがあるが」との話が出たので、日本のメーカーは日本資本単独か中日合資の会社で、日本の技術を使って作る。完成品は会社の信用に関わるため、厳重な検査を経て世界に輸出している。

合資会社の場合、日本の会社に無断で余計に造ったり,検査の不合格品を中国国内で販売したりするため、故障しやすい商品が含まれることがあることを説明し、納得。

さらに話は、ラジオの声が聞き取れずに残念がっている学生がいたので、語学の勉強ではヒヤリングが一番むとかしい話をした。

学生の数人がパソコンにカメラをつけて無料のIP電話を駆使しているのに驚いた。この点は日本より普及している感じだ。
2005/04/05

タリタリの日



夕食の後、散歩に出たところ、向こうから学生が手を振りながら近づいてくる。ケ美華・易枝燕・郭秀玲・程艶さんだ。4人が連れだって私のところに来るところだった。

引き返して部屋に案内したところ、ほっかほかの野菜餃子と肉餃子に野菜を挟んで焼いた餅が手土産だ。たれ醤油びん1本さげて。

あなた方も一緒に食べようと勧めたが、おなかはいっぱいと言うので、一人で食べる羽目になり、たくさん残った。するとみんなで冷蔵庫に移してくれて、明日食べてくださいと言う。ありがたかったり、感激したりの連続だった。

悪戦苦闘の日々



板書しておいたラジオ体操の歌詞を指差しながら聞いてもらった。体操は私がやってみせ、日系企業ではこの体操を仕事始めにやって、体をほぐす会社があることを付け加えた。

この時,日本から持参したラジカセを、中国製だと言ったら全員が目を丸くして「ぇえ〜」と驚きの声を上げた。私の持っているものは全部日本製と思い込んでいたようだ。日本メーカーが中国で造ったもので、安くて性能が良いと付け加えた。

放課後の雑談に「日本のメーカーのものでも故障するのがあるが」との話が出たので、日本のメーカーは日本資本単独か中日合資の会社で、日本の技術を使って作る。完成品は会社の信用に関わるため、厳重な検査を経て世界に輸出している。

合資会社の場合、日本の会社に無断で余計に造ったり,検査の不合格品を販売したりするため、中国国内に故障しやすい商品が含まれることがあることを説明し、納得。

さらに話は、ラジオの声が聞き取れずに残念がっている学生がいたので、語学の勉強ではヒヤリングが一番むとかしい話をした。

学生の数人がパソコンにカメラをつけて無料のIP電話を駆使しているのに驚いた。この点は日本より普及している感じだ。

2005/04/06

だから長沙はおもしろい



約束どおりの9:00アメリカ資本のスーパー・マーケットに行こうとケ美華・易枝燕・程艶さんが来た。目指すは黄興南路の北端にあるWAL・MARTだ。

世界の有名ブランド品が並んでいる広くてきれいな店だ。中国にあるだろうかと気になっていたアメリカ製の剃刀の刃・薬用歯磨きはあった。店内を見て回りながら、日本語の勉強だ。ここでもメモ帳と辞書は離さない。長沙科技日語学院の学生は意欲的だ。

昼は寿司パックを買って勧めた。刺身は赤貝?だけ、残りは粘りっ気のなくなったご飯の上に、魚の加工品であるそぼろや小魚の佃煮が乗せてある。わさびと醤油を添えて。「怖いねー」と言いなが、辛いもの好きのケ美華さんがわさびに挑戦したところ、鼻にツーンときて涙を流しながら、これに耐えた。この様子を見た三人は驚き、急に食が進まなくなった。味は甘く、冷やしてあるため本来の味が飛び、まったくおいしくない。

帰りは歩いて帰ろうと提案し、黄興中路を通って黄興北路の下に約500メートルはあろうと思われる長い地下商店街を通ってみた。南側は洋服屋街、北側は食べ物屋街が多い。入れ墨屋さんもあった。明かりがやや少ない大衆商店街だった。

長沙は世界のブランド品を並べたスーパーマーケットから、1食3〜4元の大衆食堂まで多彩だ。だからおもしろい。

断水は頭の体操
気温の上がった昼過ぎ、シャワーを浴びた直後からまた断水だ。こうなったら大きな魔法瓶は勿論のこと、湯冷ましになるが、常に大きなやかんにもお湯を沸かしておく必要がある。

水道水はそのまま飲めない。以前、学食での食事の時、うっかりコップに水道水を汲んできてテーブルに置いたところ、学生たちが驚いて「いけません水道の水は危ないです」と一斉に叫んだ。必ず沸かしてから飲むお国柄。

地球上の人口を60億人として4人に1人は中国人。お湯を沸かすために消費する13億人分のエネルギー源のことを考えると、安心して呑める水道水に変えるだけでもお国のため、地球の温暖化防止のために大貢献することに気づいた。

断水は頭の体操になった。

友好関係はお互いの文化を知ることから



室内プール・露天風呂があり、漢方薬浴・蒸気浴も備えた碧水藍天温泉浴場に入った時、なにげない素振りで中国式入浴法をじっくり観察した。

まえに手を添えるでもなく、堂々と手ぶらで入って来て、シャンプーの泡を手のひらに取り、体に繰り返しすりつけた後、シャワーで流す方式だ。

この様子を授業内容に関連させて学生たちに話したところ、皆がうなずいた。そこで、タオルを使って日本式の体の流し方を実演して見せた。日本との違いを認識してもらえたと思う。その後、温泉にどのくらいの間隔で入るかとの質問を皮切りに、お湯は何度位かとの質問も出た。

温泉のお湯が病気や切り傷に効ことや、飲んで効く、泉質はそれぞれ違うこと等は予想外だったようで、たいへん驚いた。星空や遠くの山を眺めながら入ったり、海面すれすれの温泉で沖を通る船を見ながら入る露天風呂の話には羨望のまなざしで、一度体験してみたいとの声があがった。

後のお湯はどうするのかのとの質問には、温泉熱を利用して季節外れの花・野菜・果物・観賞用熱帯植物の栽培、冬季も成長させるうなぎ養殖・地熱発電の話には納得の様子だった。

ことの違いを理解してもらった時、教師としての快感を味わう。

幾多の困難を乗り越えた顔は温厚篤実
9時に劉紅梅・謝樹銀さんが迎えに来て、彭治平さんの家に向かった。

市内の中心を北に流れる湘江の左岸にある大きな中南大学付属病院を過ぎて間もなく、これまでに見た中で最も立派な団地の前でバスを降りた。団地全体の入り口にはアーチがあり、守衛がいて車は自由に通れないようになっていた。彭さん宅は5階建ての3階だが前も裏も庭がある。マンションは3年前に125uを19万元で購入されたとのこと。

ご主人は学校職員。子供さんはアモイの大学生。お父様は元事務員。憶えたての日本語でご挨拶いただき恐縮。お母様は元小学校の先生で、料理の12品を私の「不要辛」に副って作ってくださった。お二人とも温厚篤実そのもののお顔をしておられた。お母様は、食事の時、日本語で「わたしゃ16・・・」を歌い出され、私にも歌えときたので日本民謡を披露した。その後二人でダンスを踊った。次に来たときはうちに泊まれとまで言ってくださった。たいへん気持ちの若い方だった。

はじめての飲食物はロバの肉・大きな川魚・海のうなぎ?・牛乳入り缶ビールなど。ロバ肉は赤身、ビールは白色で甘く2本は飲めない。部屋の案内では、浴室にはお風呂とシャワーがあり、トイレは腰掛式。4畳ほどの書斎の横の1坪ほどの空間は外からは見えない洗濯物干し場、古い家具は無いという新築団地の家庭の様子を見せていただいた。

中国特有の家庭の雰囲気は団地化と共に薄れてゆくのだろうか。
車は右、人はどこでも
中国は人も車も右側通行の国である。

日本人が日本の道路を渡る時は、まず右側を確認してから左側を確認して渡る癖があるため、中国の道路を渡る時は、両方とも確認することになりキョロキョロ動作となる。車やバイクがスピードを上げて流れるように走っている道路を渡る時は命がけだ。

大きな交差点では車用と人間用の信号機が付いているが、人間用は元気な人でも渡りきれない短い時間で赤信号に替わる。しかも、赤信号でも交差点に入ってくる車やバイクはざらだ。安全に渡れる時間はいっときも無い。中規模交差点では車用のみ付いている場合が多い。

共通して言えることは、車の走る右側にだけ信号機が付いている。横断歩道のしるしは無い場合が多いが、あっても人間用の信号機は無い場合が多い。

人は仕方が無いからどこでも渡るのか、人はどこでも渡るから信号機が少ないのか。どっちかだろう。
約束どおり朝7時から芦・易・程さんと湘江河畔を散歩、朝靄で視界100m、ジャンバーを着ていても薄ら寒い。多くに人が出て、思いおもいの健康体操をしていた。途中ダンスをしているグループに加わって体があったまった。

9時から10時半まで前日胃痛のために休んだ学生の補講。

12時半から寧・張さんにさそわれ、また湘江に行った。薄い青空だが日差しはだいぶ強くなり、すっかり春めいていた。

4時半からケ・程・呂・易さんが粟など持ち込んで粟粥・里芋・ほうれん草・トーフ・アサクサノリのスープ・とうもろこしの塩煮・蒸し饅頭・ごはんなど大量に作った。粟粥に日本から持参の味塩を振りかけたところおいしかったので,みんなにも試食してもらったが、誰もおいしいとは言わなかった。砂糖を入れて食べることはあるそうだ。

今夜の料理の味は私の好みに近づける努力をしたものになったため、わたしはたいへんおいしく頂いたが、辛いもの好きの学生たちにとっては物足りなかったようだ。私の気配りが足りなかった。

人間誰しも食べなれた料理の味が一番のようだ。

友好のしるしは大きく生長していた




4月3日(日)昨日の疲れが残っていたので今日はゆっくり過ごそうと思った矢先の9時ごろに楊さんが手土産の野菜餅?を持って、「先生、朝ごはん食べましたか。日本のさくらを見に行きませんか」ときた。「ご飯を食べましたか」は挨拶言葉になっている。

さくらと聞いてバスで出かけた。着いたところは長沙駅前の暁園公園だった。日中友好の印に日本から送られた桜がやっと1分咲き位だ。街中の公園のためか、「こんな幹の桜があったっけ」と思うような黒々とした桜が数十本植えられていた。園内には日本の桜についての説明看板があり、日本地図と共にさくら前線の北上のことまで書いてあった。大切に管理されている様子が推察できた。

散策している市民はさくらの開花を期待して入園した方が多かったように見受けた。ガイドの資格を持った楊さんが熱心に説明してくれた。1ヶ月前よりだいぶ日本語が上手になっている事に気づいた。もう少しで立派な日本語ガイドだ。

園は子供の遊園地になっていて入場料10元。

2005/04/19

寒空に打ち上げ花火の不思議
学校のすぐ横のアパートで、大音響の音楽が流され、時々爆竹が激しくはじけ、もうもうと煙が上がる。こんなことが3日も続き、最後の夜には打ち上げ花火が、なんと80発も上がった。

寒空に毎晩市内のあちこちで花火大会をやるもんだと思っていた不思議が解けた。お葬式だった。

国は禁止したようだが、花火生産の湖南省では一部に残っているようだ。

ステテコなんて
授業を済ませてから程・芦さんと五一大道沿いにあるアメリカ資本のスーパー カルフール(家楽福)に出かけた。中国に来るとき手荷物が40キロを超えたので夏の衣料品は中国で調達つもりだったからだ。

今日から急に暑くなったためクレープシャツとステテコを探しに出た。しかし、無かったので薄手のシャツを1枚当たり15元で買った。ズボン下は勿論のこと、それに替わるようなものも無いため日本資本の平和堂に行って3人で手分けして探したが,ここにも無い。仕方なく短パンの薄いものを1枚当たり74元で買った。

中国の男性にはズボン下のステテコをはく習慣は無いようだ。それにしても年頃の娘2人にヘンな買物を付き合わせたもんだと後悔。

あとで芦さんが高すぎますとつぶやいた。平和堂5階でラーメン3人分40元。長沙の食べ物は安すぎる。
腰に鍵束の事情

街で見かける光景の一つに、紳士が鍵束を腰にぶら下げて歩いている姿だ。最初は、大の大人が、大人気ないと思っていた。

その背景を私の宿舎や職場で考えてみた。まず、宿舎入口の最初の扉は一階と二階の間にある木造の扉だ。二番目の扉は部屋の入口にあり、格子状の金属扉で泥棒防止が目的のため、たいへん丈夫にできている。三番目の扉は金属扉と同じ入口についている木造扉である。これは遮音・防湿・のぞき見防止の役目を持っている。

扉のいずれにも鍵が付いているため、最初は入室の際不便を感じた。もちろん窓も丈夫な鉄パイプの格子がはめ込まれている。

また、職場の入り口の鍵、自分の机の引出も鍵をして泥棒に備える。責任ある立場の人は金庫の入り口や金庫の鍵などとなると、ポケットに入りきれない事情が見えてきた。
日本では障子をあけ、ガラス戸をあけて縁側から庭に降りられるが、このような安全社会がいつまでも続いてほしい。
不安の吹き飛んだ散髪

床屋に行くのでと劉艶さんに頼んでおいたら芦娟さんを連れてきた。3人でタクシーを飛ばしていったところは湘江右岸、湘江第二橋の東にある波降立交の横の床屋。

店は広くて明るく近代的な雰囲気。スタッフ約10人。会員カードを発行し、会員割引をするシステムを導入しているところだ。

最初に靴を履いたまま洗面台つき黒革張り?のベッドに寝かされて髪を洗う。念入りシャンプー2〜3回。次はスタッフが交代して鏡の前の散髪椅子に移動。エプロンをつけられ、髪形を聞かれる。伸びた分だけ切ってくれるよう頼んだ。

散髪してくれるのは皮の野球帽をかぶった青年で、服装の着こなしからしてセンスがあると見た。散発は櫛とバリカンを使かって手ぎわが良い。後は任せたという気分になった。

芦娟さんが懸命に通訳してくれた。散発しながら「髪を染めませんか。染めれば元気が出ますよ」と言った。ちょっと考えて、教室の学生諸君に笑われそうなのでやめにした。刈り終わったところで、また先ほどのベッドで洗髪しておしまい。満足の散髪屋であった。

散髪代30元。時間にして約30分。学校の周りには4畳半くらいの床屋が数珠繋ぎにあるが、ここまで来てよかったと思った。
誕生日には写真屋へ

講師の先生がバリッとした服装でご出勤。「今日は私の○歳の誕生日で、写真屋は済まして来ました」とほっとした表情で言われた。

中国ではカメラを持っている人でも、誕生日には写真屋に行って写し、その日はうどん料理に卵を入れて食べる習慣があるという。長いうどんにあやかって、長生きするようにとの気持ちが込められているのだろうか。しかし、最近の若者はケーキに変わってきたとのこと。経済開放をきっかけに中国社会は急速に変化しているように思う。

ところで、年齢を言うとき、長沙では満年齢で言うが、上海付近では若い人でも「数え年」で言う人が多いらしい。

ちなみに、出来上がった写真は、はがきサイズ1枚で、写真の中に「2005年生日」という文字入りになっていて、代金は10元(130円)ほど。
2005/04/26

押しまくられた一日

風邪のためのんびり過ごそうと思っていた日曜日の昼前、劉艶・程艶・芦娟さんが来て、生姜湯を造ってくれた。

帰り際に一緒に外食しませんかというので、家で食べるといったら「え〜っ」と顔を見合わせた。冷蔵庫の中にそれらしきものが入っていないことを知っているのだ。私が「食パンに卵・インスタントスープとあるよ」と抵抗してみたが、「風邪をひいているのにパンは体に良くないです」と納得しない。それではと出かけることにした。

湘雅路に面したそば屋(面条)に入った。面にシイタケとイカの入った「墨魚面」が10元。私に支払いさせまいとして、先生は座っていてくださいという。せめて自分の分だけでも払わしてくれ、君たちは学生だからとのやり取りがあった。

帰りに、夜もちゃんとご飯を食べてください。学生食堂に私たちが頼みに行きますからときた。断わったがさっさと行ってしまった。

夕飯の時間になったところで、先の面々が誘いに来た。食堂に行ってまた交渉を始めた。結局、私のために辛くない卵のスープとジャガイモをみじん切りにし、油で炒めた特製が2.5元。つくってくれた人のことを考え大盛りに挑戦したがとても食べきれず、半分以上残してしまった。申し訳ない。

彼女たちは帰りに私の所に立ち寄り、ひとしきりおしゃべりして早々に引き上げた。ブルドーザーに押しまくられた気分の楽しい一日だった。

2005/04/27

ダイエットは明日から


教材にすき焼きや寿司が出てきた時、学生に日本の醤油を見つけて来たら「私の宿舎ですき焼きのつくり方を実習しよう」と話していたところ、劉艶さんが崩臣路にある会員制の麦徳○商場から150グラム入り1本を10元で見つけてきた。

クラスを2班に分け、今日がその初日だ。昼食時間にケ・程・易さんの三人を連れて近くの商店街を回って、豚肉・卵・豆腐・砂糖・白菜・根深ネギ・春菊・人参・生シイタケ・もやしを買い揃えた。

料理を作るときは床に野菜屑が散乱するため、ついでに掃除用の棒雑巾を買ったところ、程さんが「私が持ちます」と何度も言ってくれた。しかし、嫁入り前の娘に持たすわけにはいかないと断わった。

中華なべを使ってのすき焼きは苦労の連続だった。水気は鍋の真ん中だけで、周囲は満たされないため焦げ始める。中華料理のようにかき混ぜると、野菜で形を成しているのはシイタケと人参だけ。さらに日本の醤油が足りなくなったので中国の醤油を加えたところ、食材が全部黒くなり、何が入っているのかわからない状態になった。

中国では生卵はお腹を壊すと信じている人が多いため、仕上げの段階で生卵を割って食材の上に乗せたところ、なかなか固まってくれない。中華なべは中心から離れるほど温度が低いのだ。

次は先のとがった中華なべをどのようにしてテーブルに乗せるかが問題になったが、大きなどんぶりに布巾を掛け、その上に載せるアイデアが出て事なきをえた。

中国では食べた料理を残すのがお客としての礼儀と聞いていたが全部食べてくれた。さらに、易さんが小さな緑色の豆と米を半々に混ぜたお粥を作ったところ、「お腹いっぱい」と言いながら「おいしそう」と言って、砂糖をかけて食べてしまった。持参した果物も。

ダイエットは明日からに先送りのようだ。

観光旅行で人間性が理解できるか


夕方から黄興中路の友誼賓館で、長沙市人民対外友好協会副会長であられる雷楚珠氏の歓迎会に出席。参加者は市役所職員の程・袁・通訳の温氏、学校から範・劉先生と小生の6人。あわび料理がメインだった。

雷氏は、日本からの観光客誘致に期待しておられた。長沙市として愛知万博に参加することなどの話もされた。

私は範・劉夫妻にいろいろご配慮いただき、楽しい日々を過ごしていること。学生が親切で優しくて義理堅いことなどの話をした。

さらに日中間の観光促進や文化交流程度では、文化の理解にはなってもお互いの人間性の理解には繋がりにくい事など話した。すると私の前歴を踏まえ、学校の先生の交流などの促進ができればいいですねとの提案があった。

最後に立派過ぎる長沙市の写真集とCD、記念品をいただいた。





竹下先生の長沙日記1
2005年3月〜6月