中村  義
中国近代史における西郷隆盛像
   (黄興と西郷)
はじめに
 この論文抜粋は昨年(2002年12月)中村先生に講演して頂いた「辛亥革命の志士・黄興と
西郷南洲」より、その原稿となった資料をお借りしたものです。当日限られた時間での講演であ
った為、説明不足の点もあられたことと思い、補足、説明の意味でわたしが勝手に抜粋して掲載
させてもらいました。先生のご指摘のとおり、「昔、書いた文のため、研究の発展資料の新発見も
あり、変化がある、」部分もあると思いますが、中国近代史をもっと詳しく勉強されたい方への参考
にと掲載させて戴きました。 
                                   大石慶二(鹿児島市日中友好協会

 (二)革命派と西郷論

・さて西郷隆盛といえば、通説では「征韓論者」として知られている。

従って当然、この点に言及しなければならない。そこで、明治期、中国人留学生が、
この西郷の征韓論をどの様にうけとめているかを述べておきたい。

 明治時期、法政大学に野村浩一という講師がいた。彼の講義を聞いた中国人留学生
はこの講義をもとにして、彼等自身の「日本明治維新小史」(明治
39年)を編集し出
版している。その一節「征韓論」によると、日本の征韓論には三種あって、その一つは
副島種臣の強硬論で、日本が列強に軽視されない為に、朝鮮に断乎たる態度をとると
いうことである。 次に後藤象次郎のように、内政の危機を外に転嫁して解決を求め
る為にとられる征韓論があり、もうひとつは西郷のそれであるとする。

 西郷の征韓論は名分を以て対応しょうとする。すなわち自分一人で韓国王に会い、
もし、信にもとるならば兵を出すというのである。つまり始めから、何でもかんで
も出兵するのではない。話し合うことを主張しているとする。したがって、明治末期
の中国人留学生には、すくなくとも、西郷に積極的侵略をめざす征韓論者というイメ
ージはない。
 さらに西南戦争についてみると、西郷の挙兵はけっして彼の真意ではな
いとする。

 もし彼が最初から反政府であったとすれば、神風連に破れた江藤新平が匿って欲し
いと頼んだ時、助ける筈であるという。(途中、略する)

 ともあれ、こうした征韓論が留学生の明治史学習のテキストに掲載されていることは
興味ぶかい。しかもテキストで、西南戦争で死んだ西郷の歴史的評価を勝海舟の次の
詩の紹介によって結んでいる。

亡友南州氏 風雲定大是    訳略

払衣故山去 胸襟淡如水  衣を払って故山に去り、胸襟淡き事、水の如し

悠然事躬畊 嗚呼一高士    訳略

豈意斉国紀 甘受叛賊?     訳略

笑擲此残骸 以付数弟子    訳略 

毀誉皆皮相 誰能察微旨    訳略 

唯有精霊在 千載存知己  唯だ精霊在る有らば、千載に知己を存す。

この詩は松浦 玲氏の研究成果によると、1884年(明治17)には作られていた。


勝海舟の西郷を悼む心情は、西郷の死の直後より「亡友帖」を版行して、知人に配布し
、西郷を偲んでいた。この勝による西郷の復権過程での試作であったという。

中国人留学生が西南戦争と西郷の死をこのような勝の詩で結んでいることに興味を覚える。

 侠の精神を媒介に西郷隆盛に共鳴した革命派の一部には,その関心が西郷の活動の基
盤である薩摩藩にも向けられた。すなわち湖南省系出版組織の一つに「湖南編訳社」が
ある。

40年前,尊皇討幕が成功し、国是が定まったのは卓越した指導者がいたからであ
る。(途中、略)湖南は尚武を好み、薩摩の風がある。  日本建国は薩摩に依存
したが、将来の支那も湖南に頼らんとするものである。

と。ここに西郷の根拠地として薩摩が登場し、尚武が強調される。

 すでに多くの研究者が指摘しているように、中国近代百年の政治変革の歴史をみる時
、湖南省の占める位置は大きい。 常に全中国の波頭に立っていた。

 その自尊の精神の表現が、日本にたとえて、湖南省こそ中国の薩摩たらんとする信念
の披瀝になる。その自己主張構築の論理の原点として、西郷が存在していることはいう
までもない。湖南省系の機関紙『游学訳編』がそれを証明している。

例えば在日留学生の名で「到湖南士紳諸公書」が掲載されている。この文は蔡鍔1903
年に書いたと思われる。

今維新の大業の志士の名を数えあげると、三藩(長州、薩摩、土佐)の志士をあげない
わけにはいかない。この藩の志士の中でも、薩摩の西郷南州翁を推さなければならない。

日本で陸軍士官学校で学んでいた蔡鍔は梁啓超との結びつき、黄興との関係も深く、
かつ後の護国軍の領袖として、反袁世凱運動を指導したのであるが、この彼の政治的
行動の出発点に西郷がおり、湖南省=薩摩論があったことは興味深い。
すなわち彼
は次のようにのべる。

中国での薩摩にならなければならない。日本は小さく、また薩摩は湖南にくらべて小さい。 しかし、日本は変わってしまった。中国は大邦であり,故に湖南は大薩摩である。だが
まだ中国を変えることができない。 湖南には屈原、王船山等の人物が輩出している。
湖南が変われば中国はこれに続くと信じる。それ故、同士は団結して起ちあがろう。・

・・・と、
 かなりの調子の高い檄文である。

 以上、二章にわたって、変法、革命両派の西郷隆盛観を紹介したが,両派とも、西郷
の維新および明治政治史上の実践、役割等を具体的な史実を根拠にして、追求するとい
うものではない。したがって、西郷の実体とは離れ、実像とは言い難く、時には主観的
で、恣意的ですらあるといえよう。だが、むしろ重要なのは、彼等が清朝支配体制の改
革、辛亥革命等の政治的変革の実践者の立場で、変革の理念を求めて、国境をこえて、
西郷を同時代,同次元の先駆として受けとめ、継承している点にあった。すぐれて政治
的論議といわなけならない。 彼等のこの対応が、西郷像を通して、日中両国関係上、
両国有志の精神的、思想的共通の場を築き上げることになっていたのである。

 そこで次に中国の西郷隆盛と称された湖南出身の革命派領袖黄興について考察を
すすめたい。

()黄興と西郷

(論文三章の始めの方は、黄興が「民報」慶祝大会での挨拶、鹿児島を訪れ詩を読んで
いる、こと、池亮吉の黄興観など、他、講演と重複するので省略)

.黄興が死亡した19161031日直後の各新聞はそれぞれ競って黄興と交際のあった名
士達の思い出を掲載している。例えば内田良平、古島一雄等は皆「実行の人、日本を好
く解して、西郷南洲崇拝の士」「一口で彼を評せば底力の知れぬ丁度我が西郷南洲の如
き人物であった。彼は平成から深く南洲に私淑し、南洲の経歴言行等に就いて細大と無
く調べて居ったが、彼の南洲に髣髴たる偶然で無い」と語っている。



 また美和作次郎氏談として次のようなエピソードも紹介されている。丁度亡命時代で
寓居に頭山,犬養,副島、古島と云うような諸豪を招いて碁会を催した。

其の時一寸した事から乃木大将殉死の話がでて木堂氏は頭山と黄と二人を顧みて二人とも西郷
崇拝だから世話に云うのではないが、自分は乃木よりも西郷の方が趣があるように思ふ。
 乃木は修養して彼れ丈になったのであるから我々でも真似れば真似れられる。  併し、西郷のほう
は真似たくても真似られるものではない。
 二人とも「誠」の人であることは同じだが、西郷の畑から乃木は出るが乃木の畑から乃木だけで
西郷は出ぬ。
詰り乃木は小乗で西郷は大乗だと説破すると、
 黄は飛上がって其の通りです。と喜んだことがある。

 以上のような事実からみて、黄興も西郷崇拝は非常に強いものであったといえる。(略)

ところが、中国の西郷=黄興にとって、そのこと自体が苦境に身を置かせることになった。
 第二革命に敗れた黄興は日本に亡命した。1913年7月30日、南京で静岡丸に搭乗し、香港に移り、
8月4日、三井物産の石炭船第四雲海丸で門司に入港という経路をとった。
この時、南京領事・船津辰一郎は冷酷にも黄興は逃げるのをやめて、「城ヲ枕ニシテ金陵ノ露と消ユル
如キコト」を望んだ。というのは日本政府が黄興の亡命を認めると、中国政府との関係が厄介になる。
したがって、出先外交官は西郷が城山で死んだように、この際黄興も南京で死ぬべきだというので
あった。
 この非常とも云うべき対策は、一部のジャーナリストにも共通の論調があった。忽野野人「死せる孫
黄と生ける孫黄」ではつぎのようにいう。

   (黄興は)平日西郷南洲の人となりを慕へりとこそ聞くが、南洲の誠忠六節は今改めて言うをまた
ず。彼は其壮年嘗て一知己月照の為に海波の中に殉死せんとしたりにあらずや。又其晩年私学校子
弟の為に終に城山の叢中に殉死したりしにあらずや。しかも黄興今果たして如何。
 
 黄興の西郷崇拝を逆手にとって、彼は南京で死ぬべきであったことを主張する。そして、死を選ばな
かった黄興に対して、さらに追討ちの批判を加える。すなわち、「黄興と西郷を対比せんは、味噌糞を
一緒にするものなり。・・・・大将が真先に逃げ出して、、まず自全の計を為すこと苟も節義を解する者
の深く愧づる所、南洲を引合に出さんは先哲を辱むるも亦甚し」と糾弾した。

 黄興は「贋南洲」となり、味噌糞の糞となり、亡命は「斯く迄堕落」の行為になり下がってしまった。
 黄興がこうした陰に陽に死を強制される冷淡な仕打ちにどのように対応していたかは明らかでない。
ただ、その一端をうかがえる資料として、山中未成(山中峯太郎)が、後になって・・黄興病死の際・・
・・語った次のような思い出がある。

   黄氏は僕達が力説する南京死守策を如何にしても承知しなかった。
   其の黄氏は日頃我が南洲翁に私淑していたのが、「城山の西郷さんと私の立場が違う」ともいっ
たりした。而して其の夜の11時南京城の神策門から獅子山砲台の北を廻る単線鉄路に密かに
巨躯を投じて城外に奔り、幕僚の黄ト元と共に我が龍田艦に救われた。龍田艦長は艦中に佩
剣を黄氏に与え、男子の死所を諷したけれども、黄氏は再び城山の西郷さんとは違う趣をもっ
て其れを退けたと言う。
 
宗教仁暗殺、第二革命とその敗北にいたる歴史過程及び、その歴史的評価、孫文と黄興の関係等
について専論によらねばならないので、ここでは言及しない。

 黄興の日本亡命は再起をはかるのが目的であり、わざわざ切腹のためではなかった。南京で黄が
死を選ぶより、生きて再挙をはかる方が袁世凱にとって脅威である筈だ。たとえ西郷に傾倒する心
情が強いからにせよ、死に急ぐ必要はなかったと思う。

 しかし、亡命前の黄興の心境については、夫人宗漢宛の書簡に「私の負うべき責任をすべて尽くしこ
とが出来ず、お前に遺す お前は私の為に能くこれを負ってくれ、私をして国家に全力を尽くさせるの
は、お前の責任であり、私一人の為ではない、故に敢えて托したい」
 書き送っている文意を見ると、遺書的な色合いが濃く感じられ、断腸の思いの黄興が想像される。

 ともあれ、日本側の黄興亡命への対応は侠の精神とは全くかけはなれ、相手の弱みにつけこむ
冷淡な仕打ちであった。
 これは、註(20)で述べた日本対華政策初期の日清戦争以前からすでにあった侠を功利的に理解
して、諜報的特務調査に活用する政策が表面化したものと言えるかも知れない。

 換言すれば、松浦 玲氏のいう「幕府の覇道すなわち孫文のいう(西方覇道)に直結する道が確定
した」時期が到来していることではなかろうか。



 

             (四) 二・三○年代の西郷論


 ・・・・・(約一ページ略して)・・・・

一方、日本の侵略主義、膨張主義の顕在化は、辛亥革命前から日本人を友として活動していた中
国の青年、知識人にも、衝撃を与え、民族的危機感を抱かせるようになった。
 彼らからも当然、日本批判の論陣がはられる。そこにはかっての連帯のシンボルとしての西郷像は
消え、却って、批判の対象にさらされる。

 その例として,戴季陶、張継、何天烱三人の連名による「日本国民に告げる書簡」を次に引用して
みよう。

  五十年前に開国と進取を標榜して立ち上がった維新の志士も、大陸侵略を根本的政策と考えない
ものは  なかった。大木(喬任)氏の日露同盟による中国瓜分論や西郷(隆盛)氏の征韓によって
大陸をうかがう計略はその代表である。だから大陸侵略は日本の伝統的政策であり、一切
の対華方針の基礎  なのである。
中国の国家及び国民の利害が日本と共存できない原因はここ
にあるのだ。
 
表題は「日本国民に告げる」と穏やかであるが、内容は厳しい批判であり、糾弾であった。大陸侵略は
日本の伝統であり、原点に西郷の征韓論があったという。すでに両国の利害は相反し共存できない
段階に達したのであった。

 ごくおおずかみに言えばこの中国側の対日観はその後の中国革命過程では継承され、1945年8月
15日までの主流となっていった。

 しかし、一方では辛亥革命ピークとする革命過程で、日本で学び、日本人を友とし、その協力を体験
していた中国人の中には、明らかになった日本の野望に対して、攻撃、批判を加えつつも、他方では
侵略国日本の方向転換に希望を寄せる忠告的発言が、20年代、30年代に入っても続いた。
 
 端的な例は、1924年、神戸で行われた孫文の「大アジア主義講演」はそうであろう。

 孫文はこれより先、日本の侵略主義、膨張主義の野望に警告を与えつつも、「日本の明治維新は
中国革命の第一歩であり、中国革命は日本維新の第二歩である。
中国革命と日本の維新は、
実に同一の意義を持つものである」と述べ、また「生を捨てて国を救う志士の仁」を強調する。と同時に
 「惜しむべし、日本人は維新後強盛となり、中国革命の失敗を忘れた。それ日中の感情は日に疎遠
になった」と主張する。

 まさにこの点にある。つまり、孫文の論調、論示にそのような西郷論が二十年代から三十年代にかけ
て主張されていた。その例として、1927年出版された戴季陶『日本論』をあげることができる。

 前述したように、戴は十年前、「日本国民に告げる書簡」の共同執筆者であった。戴は「日本論』執筆
の契機は明治維新の大事業を成し遂げた日本人であるので、現在の中国が目ざす独立と統一を理解し
てくれるものと期待していた。にもかかわらず、現今の日本政府はその期待を裏切っているという。すな
わち田中義一内閣の山東出兵は中国の統一を妨害する侵略であると糾弾する。

 しかるに、田中義一内閣はこの「尚武の精神」を忘れた軍国主義の内閣になってしまったと。
 これはけっして矛盾ではなく、尚武の精神の衰退が、かえって軍国主義を増大させるのだという。

 ここでいう「尚武の精神」の尚武とは、清末軍国民教育会で主張されたそれと同様で、侠と通じるもの
と考える。しかし戴は侠を用いない、むしろ二十年代では、崇侠を後景におき、尚武を以って批判の原
理とする。

戴は維新の大成功の主力は薩摩藩であったし、人物の点でも偉大な人物といえば西郷隆盛である」と
いう。
しかし残念にも西郷は殺されてしまったが、彼こそ尚武の精神の持ち主である。それにくらべて、国家中
粋の権力を握り、軍閥、財閥の基礎を築いた輩どもは、腐臭紛々たる長州閥の貧官どもであると厳しい。
 
薩長対立史観ともいうべきバイアスは感じられるが、軍人田中内閣批判の為、武士道を逆手にとって、
尚武を主張したのである。つづいて、

個人の仕事の失敗がかえって時代の成功の原動力となることも多いし、個人の仕事の成功がじつは失
敗者の思想に浴していることも多い。たとえば日本のここ数十年の歴史を通観してみると、西郷隆盛が
いい例だ。


かれは現実には失敗したが、その後かれの抽象的人格は、日本民族の最近五十年の絶対支配者とな
って、多くの事業がかれの人格の力で推進されている。

 また、かれに従って失敗した土肥両藩のエネルギーは形を変えて、後の民権運動の中心となったばか
りでなく、その余光は今日に及び、日本既成政党のすべてを支配している。いっぽう、成功をおさめた長
州藩は、今日、西郷の人格の前にひざまつかざるをえないばかりか、民論の推移にしたがって、政策を
決定せざるをえないのである。

 事実問題だけをとりあげてみても、西郷の征韓論はかれの死後十八年(すなわち1895年、日清戦争
の年)にして実現し、死後三十年(1910年 日韓併合)にして公然と目的を達した。
 かりに、明治四年の段階で西郷の征韓論が通っていたとしたら、一大災禍を招いて、日本の維新の
事業は御破算となり、西郷の人格も埋もれたままになったかもしれない。

 内容は複雑で、理解しにくい点もあるが、文意は次の様だと思われる。すなわち、維新後、日本近代
「数十年の歴史を通観」すると、その政治の諸様相の中に、すべて西郷隆盛の影がおちている。また誰
しも、この西郷の影響あるいは恩恵を受けていることを無視できない。にもかかわらず、真の西郷とは
異なってしまっている。とくにこの1920年代の日本政府、指導者にはそれを求めることは出来ないという
のであろう。

 のこの書に序文を書いた胡漢民の文章によると「この一説は余人による百の西郷への賛辞に匹敵
する。たしかに西郷は王政統一の時代に謀反を起こし、反逆の大罪を負わされて死んだ。しかし死後数
年にして、かれの銅像は上野公園にそびえ立ち、全国人民の崇拝を集めることになった。しかも、日本
全国のどの銅像もこれに比肩しえないのである」というのである。

・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・
 三十年代に入って、戴季陶と同様に、知日家として著名で、若い時に「新民叢報」に論陣をはったこと
もあり、かつ軍人である蒋百里(方震)は「日本人ー一外人的研究」を書き、
 「真に日本精神の美徳の代表とするに足る人物がいる。つまり西郷隆盛だ。しかし、彼は典型的に悲
劇の主人公となった。というのは、彼は彼に反対した敵に敗北したのではなく、彼の愛した学生に敗れ
たからだ」と述べている。

彼の愛した学生というのは、西郷の死後の日本かも知れない。西郷を悲劇の主人公と表現するように、彼に対して、敬愛と同情の気持ちがあることは確かであろう。
 美徳の代表が西郷とするなら、西郷の死は美徳を失った日本となり、それ故に、残虐、野蛮な侵略日本になって、中国を侵略するという批判のレトリックとなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下、略します。